早くも傑作の呼び声が高く、今さら私なんかが感想を書く意味はなさそうだけれども、自分がどのように感じたかを、誰かの批評に左右されてしまう前に書き留めておきたい。このブログは、自分の好みすらも誰かの顔を窺いながら決定するような、そんな気分に迎合しないためのささやかなレジスタンスなのだから。


 原作は、こうの史代の同名マンガ『この世界の片隅に』。
 こうのが描くかわいらしいキャラクターたちが、スクリーンの中で躍動している。手と足が大きくて丸いキャラ絵が、ディズニーから派生した手塚治虫の絵を彷彿とさせることもあってか、まるでアニメートする時を待っていたかのようにさえ感じられた。映画の冒頭、主人公の女性「すず」が壁を利用して一人で荷物を担ぐ姿を丹念に追う描写だけを取っても、その自然かつさりげない運動がキャラクターの存在感を高めている。それは「絵に命が吹き込まれる」という、アニメーションそのものが持つ原初的な快感を湛えているかのようだ。

 本映画を貫くのは、主人公・すずのモノローグだ。
 すずは快活でお調子者で働き者で、でも少しとぼけた雰囲気を持った市井の人だ。ただし彼女は、絵を描くことがとても得意という、ひとつの特徴的な個性を持っている。それもあって映画には度々、彼女が創作したお話を絵に表すシーンや、風景をスケッチするシーンが差し込まれる。
 特にスケッチに顕著なように、絵を描くことは対象の観察者になるという側面を持っている。風景や人物を描くということは、客観で世界を相対化しつつも、主観的に構築し直していく作業と言えないだろうか。つまり絵を描くときにその主体は、ごく自然に客観と主観を往還している。そしてすずは、そうした主客が共存した視点で世界を捉えている女性なのだ。
 例えば、幼なじみの「哲」の代わりに国民学校の授業の課題絵を描くシーン。哲が「海に寄せ立つ白波がウサギのようだ」と喩えたことを受けてすずがその筆を運ばせると、世界はまさに幾羽ものウサギが飛び跳ねる情景して立ち現れる。あるいは、呉市を襲う爆撃機に対する砲撃シーン。空に浮かぶ色とりどりの砲煙は、すずが眺めるうちに、空色のキャンパスに筆の穂先で絵の具を配する描写へと置き換わっていく。このとき劇中では、すずの内語として「こんな時でも絵の具があったらと思ってしまう」といった主旨のことも表され、彼女自身、世界を相対化する気質を自覚していることがわかる。
 そうした演出が特に印象づけられるのが、すずが右手を失ったことを自問するシーンだろう。絵を描く際に用いる右手は、彼女にとって世界を把握する手段でもあった。その右手を失ったという認識をすずが確かにするにつれ、つまり、すずが世界を正しく捉えられなくなるに従って、スクリーンに描かれた世界を形作る輪郭線は崩れ、あたかも左手で描かれた絵のように歪になっていく。
 こうしたシーンの数々が、前述したモノローグの多用ともあいまって、本映画がすずの視点で描かれていることをわかりやすく示してくれる。もちろん、作品中の絵が世界を形作る絵自体にそのまま置き換わっていく演出は、そうした効果だけではない、アニメーションやマンガでしか不可能な映像表現として特別な感動を沸き起こすだろう。

 本映画の興味深い点は、このようにすずが捉えた世界と思わせるにも関わらず、あたかもパンフォーカスで捉えたかのように、画面に描かれた隅々までの目配せを感じさせるところだ。と言うのも、本映画を観ると、俯瞰ショットや全身が映るようなロングショットが強く印象に残るのだ。例えばすずと夫・「周作」が橋の上で話すシーンなどは、正面やサイドからのバストショットで2人だけを捉えてもよさそうなものだが、映画では俯瞰ショットにして背後の通行人たちも描いていた。このシーンに限らず、特定の人物を中心に彼らの演技を追って物語を駆動するのではなく、背景に映る群集さえも営為の活写によって比較的等価に扱おうとするその手つきは、世界そのものを描くのだという意志を感じさせるようだ。
 また、本映画の制作にあたって、片渕須直監督が膨大な資料を詳細にあたり、執拗なまでのロケハンを繰り返したことはよく知られている。その甲斐あってだろうか、背景も含め、映画に描かれるあらゆるものに新鮮な驚きがある。例えば戦前のクリスマスのシーン、目抜き通りを陽気に踊るサンタクロースの描写などは、物語上の要請がないにも関わらず目を見張ってしまった。こうした説得力が画面の端々に備わった結果、本映画は演出の枠を超え、画面のあらゆるものに焦点が行くような印象を抱かせるのだろう。

 世界が、パンフォーカスで描かれている。我々は、すずのモノローグを聞き、すずの内面を反映した演出を観て、すずに感情移入しながらも、どこかで彼女にさえも特別な価値を置くことなく、眼前に構築された世界を眺めている。この主観と客観が歪に共存している視点は、絵を描くという行為のそれにどこか似ていないだろうか。つまり本映画は、その構造からして、絵を描く主体である「すず」という女性に寄り添っているように感じられるのだ。

 そうまでして、なぜ「すず」という女性を描くのだろうか? 彼女は別に特別な女性ではなく、戦争という時代を生きた、ひとりの“普通”の女性であるはずだ。
 この、すずに対する「普通」という評価は、劇中、すずの初恋の相手でもある哲の言葉として何度も繰り返される。
 お国のために死ぬことを約束された兵隊である哲は、日ごろから、おそらく同情心からある程度のことを許容されているのだろう。「死に遅れた」と自嘲する哲に対し、すずの家族ばかりでなく周作さえも遠慮がちで、すずと哲の過去への嫉妬もあってか引け目を感じさせる。しかしすずは違う。子どもの頃のように自分をからかう哲に怒り、哲に必要以上の同情心を抱くこともなく、周作への愛情が勝って哲に抱かれることを拒む。そうして自分を差し出した周作への怒りを露にするすずを、哲は「当たり前のことで怒って、当たり前のことで謝る。お前は、普通だ」と評するのだ。
 おそらくここで言う「普通」は、世相や気分といった抗いがたい状況に振り回されて哲に気を遣いすぎるような、一般的な人々の価値観を指してはいない。こうした不条理とは無関係に屹立する、当たり前のことに笑い、当たり前のことに泣き、当たり前のことに怒るような、当たり前な「人のあり方」を指している。そのため戦争によって世界が異常さを帯びるほど、すずが備える「普通」は、相対的に特別な価値を持つことになる。同時に、いつかは取り戻したいと願われる平常として、異常な世界に灯る希望にもなるだろう。だからすずは、皆に愛されている。

 映画の終盤、そのように世界に異常さをもたらしていた戦争が、ようやく終わりを迎える。
 ただし終戦という大きな契機を迎えても、別に世界が終わるわけではない。つらい生活をやり過ごす我慢のタガが外れ、絶望的な気持ちになり、「世界が終わったらどんなに楽だろうか」と思ってしまっても、慈悲もなく日々は続く。1945年8月15日は確かに重要な日ではあるけれども、過ぎていく膨大な日々の中の1日でしかないこともまた事実なのだ。
 世界が続く以上、片手を失ってなお、すずは生きていかなくてはならない。闇市に並び、かつての敵国兵に食べ物を乞い、彼らの残飯を漁ってでも、人々は生きていかなければならない。そのうちに、我々は辛いことを過度に思い出すこともなくなり、少しずつでも前を向いて歩き始めるだろう。それが生活というものだ。

 生活。思えば本映画は、執拗なまでに人々の営みを描いていた。物語の構造としてすずに寄り添ってはいるが、この映画の真の主役はすずではなく、すずの眼で捉えた、すず自身を含むこの時代の人々の「生活」なのではないか。むしろ生活を描くための視点として、大きく揺らぐことのない普通という価値観に立脚し、主観と客観の両方で世界を把握できるすずという女性が選ばれた、という見立てが相応しいのかもしれない。もちろん、そうして描かれた生活に宿る悲喜の数々を本映画がどれだけ大切にしているかは、たくさんの愛らしいキャラたちが画面のいたるところで生き生きと動く様だけを取っても、十分な説明になっているはずだ。

 映画は、そのような「生活」に美しい結末を用意している。
 子どもに恵まれなかったすずと周作は、原爆で母親を失った女の子を急に家族として迎えることにして、北条家の皆もそれを歓迎する。北条家に突然嫁いだすずが、「嫌な人かどうかも分からなかった」周作との間に愛情を抱くようになり、紛れもない夫婦になっていったように、彼らはみな、日々の苦楽を共にすることの強さを知っているのだ。防空壕に迷い込んだ猫も、一度は嫁いで出戻った周作の姉「徑子」も、いつしかすずのかけがえのない家族になっていたように、どこにでも愛が宿ることを信じている。
 このように、理由があろうがなかろうが、人々が寄り添い生活するという営みの可能性を、本映画は堂々と肯定して終わる。

 それはまるで、世界の片隅で、過ぎていく日々を踏みしめていく我々すべてに捧げられた、あまりにも真っ直ぐな賛歌ではないか。
 だから、ありがとうと言いたい。『この世界の片隅に』は、私の、あなたの日々の営みを、生活を、慈しんでくれているのだから。