青山のイメージフォーラム・シネマテークで、映画『だれも知らない建築のはなし』を観てきた。映画と建築のどちらに関しても門外漢であるため感想を記すのは難しいかと思われたものの、建築家不在でも建築が成立してしまう状況への危惧、たとえば世界中に金太郎飴のようなショッピングモールをあふれさせる経済優先の論理の前にあって、建築家に存在意義はあるのだろうか? という問いは、建築に限らない射程の広いテーマとして受け留められた。
 本映画の基本構造は、1982年に催された「P3会議」の出席建築家へのインタビューをつなぎ合わせ、70年代以降の建築史をひもとくというものだ。なかでも3人の日本人建築家、安藤忠雄と伊東豊雄、磯崎新のキャラクターの違いによる発言の差異は、「大阪万博以降、つまりは建築において“大きな物語”が機能しなくなった70年代以降を、建築家がどのように社会にコミットしてきたのか?」という史実を多角的に検証する資料として、有意義に働いていた。屹立した孤高のミニマリストである安藤は、常に自分以外との戦いという視線で社会を語っているし、建築アカデミズムの中心から出てきた伊東は、常に厳しい批判の視線で社会を捉えている。

 建築家不在でも建築が成立してしまう状況。劇中で磯崎新は、自身の興味は都市計画などに移っているとしながらも、これからの建築家像として「エンジニアかテクノクラート、あるいはアーティストになるべきか?」というシナリオを想定していた。なるほど、均質化が進み第一に経済、次に政治や市民の論理が優先されるようになった社会にあって、アーキテクト然とした旧来的な振る舞いをする建築家は、もはや価値なき存在となっているのだろうか。
 ディープ・ブルーショック以降のチェスの世界においては、局面の最善手を求めるだけならコンピュータに訊ねるのが“最善手”となった。簡単に言えば、強い・強くないだけが基準の世界においては、グランド・マスターはコンピュータによって代替可能と捉えられようになってしまったわけだ(もっとも、チェスの世界ではコンピュータチェスの普及により競技人口が増え、レッスンプロの需要はむしろ高まっているという)。
 これは文化的、芸術的側面を強く持つチェスだからまだいい話で、そうではなく経済価値を至上とする世界であれば、アルゴリズムが取って代われそうな職能は、早晩その価値を失ってしまうのだろう。なぜなら儲かる・儲からないが基準の世界では、与条件を代入してアルゴリズムで自動的に弾き出された生成物であっても、十分な価値を持ってしまうからだ。そして悲しいかな、そうした経済の論理は、現在の世の中にかなり強固な価値基準として横たわっている。

 映画は、そのような社会において建築家が必要とされなくなってしまったいきさつを、特に日本におけるバブルの隆盛と崩壊、つまりは経済の論理が支配力を増していった過程を通して描いていく。
 なかでもその象徴として取り上げられたのが、バブル華やかりしころに福岡で計画されたネクサス・ワールドだ。そして旧来的な建築家である磯崎新がコーディネートしたこの分譲マンションの商業的な失敗(あくまで当時の価値基準によるものだが)と、その直後に同デベロッパーが、商業施設専門で建築的な評価を得ていないジョン・ジャーディを御して進めたショッピングモールの成功というコントラストは、以降の建築界に落ちた深い影の現れとなった。経済の論理の前で、建築家不在で作られた建築のほうが高い価値を持ってしまったそのとき、「建築家は必要なのか?」という問いが説得力を持って起ち上がってしまったというわけだ。

 現在。現在において自身の存在意義を示すために、建築家はいかに振る舞うべきか。本映画のラストに投じられるのは、特に3.11以降にその問題意識と格闘しながら、「みんなの家」のような地域と住民に根ざした建築を生み出し続けている伊東豊雄の言葉だ。
 70年代以降だけでも、建築界には様々な変化が生まれ、いくどもの淘汰が行われてきた。メタボリズムブームの終焉とポストモダニズムの失敗、モダニズムを超え普遍化したミニマリズム、脱構築ブームをもたらしたコンピュータ革命。伊東は、そうした建築界のさまざまな潮流に、時に抗い、時に飲み込まれながら、自らの存在意義を勝ち得てきた、本当に稀有な建築家だ。その伊東がこぼす言葉の持つ意味は大きく、重い。
 伊東は、自分は批判・批評の論理を建築にしてきたと言う。一度、それ以外のロジックで設計をしてみたいとすら言う。その時々の社会への深い眼差しが生み出す優れた批評や、人間はかく生きるべしという確固たる思想を著す手法で、彼は建築を生み出してきた。いくら日本の建築家が欧米世界でもてはやされようと、意匠のみの評価などにいったいなんの意味があろうか? とも、伊東は言う。
 与条件の達成度を測るだけならアルゴリズムとエンジニアがあればいいし、ご高説を垂れるだけならテクノクラートであればいいし、見た目の美しさのみを競うならアーティストであればいい。そうではなく、己の思想を、言語ではなく、三次元の構造物として具象化する。そこに、建築家が建築家たる所以があるのではないか。少なくとも伊東に関しては、そのような建築を世に問い続けることで、凡百の建築家がたどり着けない彼岸に到達しえたように映るのだが。

 果たしてこの問題は、前述したチェス界と通底しているように、なにも建築家に限ったものではない。およそクリエイティブとされる営為全般、おそらくはデザイナーにだって編集者にだって、作家にだって適用できるだろう。もちろんそれは映画監督にだって同じことで、本映画の主題は、撮影した監督自身にもブーメランのごとく突き刺さってくる。ハリウッド映画の脚本の筆がマーケティングと合議制に取って代わられ、監督固有の物語が影を潜めるようになった現在、小劇場でしか上映できない、商業的な大成功を望めない映画の監督に、存在価値はあるや否や?

 もちろん本映画を鑑賞しに青山まで足を運ぶような人たちにとっては、建築家も、デザイナーも編集者も作家も、映画監督もおしなべて存在価値を持つに違いない。なぜならわれわれは、たとえ霞を食らってでも、思想や哲学を持った人間が作り出すものの美しさ、優れた建築やデザイン、記事、文章、映画に触れたときの喜びを糧に、それぞれの生を彩っていくと決めたのだから。