ロロ+EMC feat.いわきっ子を見届けるために、パルテノン多摩まで足を運んだ。
 『演劇人の文化祭』内で催される音楽ライブということで、音楽と演劇をどのように融合させるかに期待がかけられる中、出演陣は四者四様のアプローチを見せてくれて、十分に楽しめた。中でも、恥ずかしながら初見だったFUKAIPRODUCE羽衣には強く惹きつけられ、泥臭い涙を何度も流してしまった。明るく朗らかに、人生の無常という真実を歌い上げる(明朗と無常の同居までもを含めての真実だ)、なんとも妙なミュージカル。確かに。
 こういう嬉しい誤算があるのだから、目当ての劇団だけを観て帰ってしまうのはもったいない。そういう狭量な振る舞いはインターネット上だけでたくさんだ。


 演劇と音楽の融合に対するロロのアプローチは、とりわけ見事だった。
 まずは、ひらのりょうのマンガ『FANTASTIC WORLD』刊行記念イベントでも披露された、ロロによるSMAP。この日はSMAPと明言されていなかったはずだが、SMAPらしき誰かを演じた上で音楽ライブを行うという虚構の構造は、もうストレートに演劇だ。その上で、抜群の音楽ライブ体験を提供しようとする心意気。それを可能にしたのが、Enjoy Music Clubの江本祐介によるSMAPオマージュ楽曲の圧倒的な完成度の高さであることは間違いないだろう。ひと言、音源がほしい。
 そして、その虚構の世界にEnjoy Music Clubの3人が登場したときの興奮ったらなかった。映画を観ていたら、本人役でタレントが登場したときの感覚と言うとわかりやすいか。そこにいる誰もが演じている舞台上に、まったく演じていない本人が登場する違和。虚構に突如リアルが貫入する驚きが、EMC登場の高揚と重なって興奮を高めてくれた。

 EMCとロロがコラボしたパーティーチューン『EMCのラップ道』のわちゃわちゃ感も素晴らしかったが、続いて披露された『ナイトランデヴー』が個人的には本日の白眉。EMCの3人とロロの女優陣3人が対となって向かい合い、3組のカップルが舞台に点在したまま、順繰りに歌い始める。ここで、同じ舞台で表現されていても、演劇と音楽を決定的に分かっていたのが、演者の眼差しだったことに気づかされる。演劇と違い、音楽ライブは観客を眼差すことでコミュニケーションを取る。だから『ナイトランデヴー』で3組の男女が観客を見ずに互いを見つめ合ったとき、そこで歌われる物語は演劇として閉じ、外から眺める対象になるのだ。 
 ところが、曲が終盤になると、舞台上の6人の眼差しが突如我々に向けられる。瞬間、舞台上の演劇は音楽ライブに切り換わり、それまで外部から眺めていた物語が、突然我々に向かって流れ出してくる。そうして、『ナイトランデヴー』で描かれる、「柿ピー」みたいな関係を標榜する男女の前向きな倦怠が、我々個人のリアルと地続きであることを強く実感させられる。このとき、演劇と音楽を横断する構造自体が、歌のメッセージを届ける橋渡しとして機能して、音楽ライブで歌われるよりも我々の心に響いていることを実感するだろう。そう、演劇と音楽が見事に融合しているのだ。
 演劇と音楽の融合。それを意識するとき、曲のなかで物語を起ち上げようとするのはごく当たり前な試みに思える。その結果、歌詞が説明的になったり冗長になったりして、リーディングやラップに頼る傾向が強くなってしまうのも、致し方ないのかもしれない。しかし、多くの歌は、演劇同様に物語を内包しているものだ。であるならば、歌がもともと備える物語を演劇的操作によって起ち上げるほうが、実は自然なアプローチではないか? それを企図したか否かはわからないが、三浦直之は、EMCの名ナンバー『ナイトランデヴー』に眼差しの操作という簡単な(しかし緻密な)演出を施すことで、その物語だけでなく、メッセージさえもを顕在化してみせた。その鮮やかな手つきに「魔法みたいだ!」と唸ったのは、決して私だけではないはずだ。

 『ナイトランデヴー』が終わると、恋人役だった島田桃子に「頑張ってね」と声をかけられた江本祐介が、EMCの衣装を脱いで舞台に一人立つ。そうだ、本人として出演していたが、そもそもEMCのEもまた、江本祐介が演じる役だったのだ。衣装を脱ぎ、Eを演じることを止めた江本は、しかし先ほど島田から励まされたように、『ナイトランデヴー』で演じた彼氏役は継続しているようにも思える。虚構と現実が、演劇と音楽が幾重にも入れ子になり、混ざり合った舞台で、いよいよあの曲が始まる。『ライトブルー』だ。


 『ライトブルー』から先は、もう構造的な視点で考えることに匙を投げた。おそらくこれは、鮮烈な碧い輝きを放つ青春のドキュメンタリーであって、私はこうした表現に語る言葉を持たない。だからここからは、語れないという言い訳を語るしかない。

 歌い出しのサビからしばらくすると、舞台上にいわきっ子たちが流れ込んできて江本の後ろでパフォーマンスを始める。高校内での日常のような情景を彼女たちが演じ、サビでは一体となって軽やかに踊る。江本は彼女たちを見ることなく観客を眼差していて、あの名MVが江本の背後に映し出されているような視覚体験は、あたかもテレビの歌番組を観ているかのようだ。さらに曲の終わりにかけては、江本も彼女たちと同じ振り付けを踊り出し、若い女の子たちに囲まれたポップスター然として魅せてくれる。その立ち居振る舞いは、さながら紅白歌合戦の星野源。しかも『ライトブルー』が終わって次の『100%未来』までの間は、いわきっ子に囲まれて再びEMCの衣装に着替えるという、ダチョウ倶楽部・上島竜兵メソッド。このポップさ。近い将来に、江本祐介が日の目を見るだろうことを確信させられた。

 それにしても、『ライトブルー』から最後の曲『ミーツミーツミーツ』までの流れはあまりにもまぶしすぎる。私は、批評は作品外の文脈(作者の生い立ちやトラウマ、その時々の社会情勢、etc…)を"あまり"考慮せずに、作品から読み取れる要素を"中心に"書かれるべきだと思っている。言い方を換えると、この日初めて、何の前情報もなしにロロ+EMC feat.いわきっ子を観た人と、できるだけ同じ視点で感想を書く方が、普遍性を獲得できると考えている。
 そのような意味で、あえて、あえて誤解を恐れずに言えば、江本祐介の後ろで踊り、はしゃいでいたのが「いわきっ子」でなかったとしても、私はきっと、すごく感動をする。涙も流していたとも思う。なにせ私は、この日多摩センター駅に降りたときに、制服を着た高校1年生くらいの男女の集団が駆け足で前を通り過ぎていくのを見ただけで泣きそうになってしまう、簡単な感性の持ち主なのだ。
 繰り返しになるが、いわきっ子たちの公演『魔法』を三浦直之が演出をして、その縁で江本祐介『ライトブルー』MVを彼女たちが主演したという本舞台外の情報は、本来的には感想に影響すべきでない。ただ、そうは言っても、私は『ライトブルー』のMVをあまりに観過ぎてしまっている。彼女たちの弾ける笑顔に、何度も自分の口角を上げてしまっている。渡り廊下に並んでふわりと舞うスカートに見惚れ過ぎてしまっている。『メイキング・オブ・ライトブルー「20人、最後のダンス」』を見過ぎて、彼女たちがとても頑張り屋であることを知ってしまっている。ロロやEMCの面々のツイッターなどを介して、いわきっ子たちの個性を、彼女たちがとても魅力にあふれた女の子であることをわかってしまっているのだ。
 では改めて、これらの情報は、本舞台の感想を書く際に考慮すべきではないのか? 答えは否だ。なぜなら、この日の圧倒的に幸福な空気は、本舞台という作品の魅力そのものであり、その源泉となっているのが、いわきっ子と、ロロとEMCとの固い絆、信頼関係であることは疑いようがないからだ。彼女たちのキャラクターが、取り巻く大人たちを動かし、このような表現に結実している。「いわきっ子」でなければこの美しさに到達できていないという点だけを取っても、彼女たちのキャラクターそれ自体が、紛れもなく本作品の魅力であると断言できる。そして、それを「ダンスも綺麗にまとまってて美しいし、練習の跡も分かるし、何よりもあんなステキな子たちが幸せそうで、もう見てるだけで泣いちゃったよー。出会いってすごい!」と語るのが、私の精一杯なのだ。
 このひと言を書くために、ずいぶんと回りくどい言い訳を並べ立ててしまった。ロロ+EMC feat.いわきっ子は、「すごく、よかった」。



 3月11日に催されたのはただの偶然だろうから過度な重ね合わせはしたくないので、簡潔に。あんなにもしんどいことがあったのと同じ日からちょうど6年経って、こんなにも素晴らしい日を迎えられるのが、「人生ってやつ」なのだろう。だからと言って「人生って素晴らしい」と手放しに称揚するつもりはない。けれども、そんなに捨てたものでもないのかもしれない。だから、せめて徹底的に明るく、間抜けに、朗らかに歌ってみたい(心の中で)。

 もう何年もー もう何年もー
 いーことなんかなーいー 
 今日×死ぬまでの日数= 無常の人生ー♪
      (FUKAIPRODUCE羽衣「果物夜曲」より)