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 『いつ高』のVol.4『いちごオレ飲みながらアイツのうわさ話した』を、こまばアゴラ劇場で観劇してきた。
 タイトルが示すとおり、3人の女の子(瑠璃色、茉莉、海荷)が学校の中庭でいちごオレを飲みながら、ただただ誰かのうわさ話をしているだけの物語のようで、なかなかつかみどころがない。などと書くと物足りなかったかのように思われそうだが、まったくそんなことはなく、やはり青春への憧憬を掻き立てられる素晴らしい演劇だった。冬に覚えた歌を忘れてしまう前に、その感想を書き記しておきたい(2回目)。


 登場する演者はわずか3人。この3人の女の子のとりとめもない会話劇に大きな物語的運動をもたらすのは、よく廊下で「国崎」に怒られている男子生徒「群青」が記した(と彼女たちが勝手に想像している)、短歌だ。
 短歌はなぜか、彼女たちが座るベンチの裏や、ベンチ脇のゴミ箱の裏などに隠されるように記されている。そしてこれらの短歌は、瑠璃色が言うように、あたかも彼女たちが日々スマホで撮影している写真のごとく、校舎内の日常を切り取るように詠われている。その鮮やかな筆致は思わず枡野浩一の名を出したくなるほどだが、この青春を切り取った一葉の写真のごとき短文たちは、同じ校舎で過ごす誰かに読まれることを期待しながら、ひっそりと校舎の隅で息を潜めていた。それは誰に届くか分からない、あるいは届かないかもしれない手紙のようで、だからこそ配達された暁には、投函時には想定しえなかった関係を結ぶだろう。むしろそれを期待して、あえて人目の付かない場所に書かれたに違いない。
 このような、曖昧な意思疎通による関係の変化や、不測に生じたコミュニケーションといったイレギュラーが新しい「繋がり」をもたらすことへの期待は、前作『すれちがう、渡り廊下の距離って』と同じものだ。簡潔に、「不確かさ(誤配)に可能性(希望)を見出す態度」と言い換えてもいいだろう。

 不確かさが生む可能性は、「うわさ話」にも通じている。「陰口」と結びつき、ネガティブなイメージで捉えられることが多いものの、不確かな情報から想像力を働かせるという「うわさ話」の営為は、多分に創造的な側面を含んでいる。そして三浦直之の筆は、そのうわさ話の創造性を見事に照射して、物語の推進力に仕立ててみせる。
 我々はうわさ話をしながら、相手の窺い知れぬ側面を自分勝手に想像する。誰がどのような内面を持っているかなんて、実際にコミュニケーションを取らないと一向にわかりえない。ましてや、ベンチ裏にしのばせられた短歌のように、あらゆる人に思いもよらぬ一面が隠れているものだ。力強く長ベンチをひっくり上げる海荷に、瑞々しい短歌の才能が備わっているなんて、いったい誰が想像しただろうか。
 だからうわさ話に想像力を刺激された彼女たちは、やがてその真偽を確かめるべく行動を起こし始める。そうして、うわさ話が新たな関係の萌芽になりえることを、我々はたやすく理解する。例えば本劇のタイトルである「いちごオレ飲みながらアイツのうわさ話した」を「いちごオレ飲みながらアイツの見知らぬ側面を想像しあった」と換言するだけで、そこに何か新しい感情が芽生えそうな予感が漂ってこないだろうか? もしかするとそれは、恋だったりするのかもしれない。


 『いつ高』のテーマが「眼差し」であることは、あらかじめ明言されている。
 眼差し。何かを見つめる視線。特に舞台範囲が限定される演劇においては、演者が遠くを眼差す先にある者・物の様相は、我々観客の想像に委ねられる。このとき、我々が演者の見つめる先だけでなく、見つめる演者の気持ちの両方を想像していることも忘れてはいけない。眼差しは、受け手の想像力を強く刺激する、作劇上の装置でもあるわけだ。
 本劇ではこの眼差しが、現在4作品あるシリーズの中でも最も強く意識させられる。それは当然のことで、彼女たち3人はうわさ話をして、ここにいない誰かのことを想像するために、中庭で過ごす時間のほとんどを眼差すことに費やしているからだ。そして、彼女たちが遠くを見つめるときの、対象から眼差されることがないが故の無防備な表情は、その内実を雄弁に物語ってくれる。

 このように本劇では、彼女たちの印象的な眼差しが数多く見られるのだが、とりわけ、中庭で1人たたずむ瑠璃色が見せた表情は圧巻だった。
 瑠璃色の、当初は好奇心に満ちたようにキラキラしていた瞳が、徐々に潤み、憂いを湛えていく。
 その繊細な変遷の間、瑠璃色の視線の対象と、それを見つめる彼女の気持ちを想像しながら、我々は息を呑んでその表情を見つめ続けた。
 恥ずかしいことに、私には彼女が誰を見ているのかが判然としなかった。学校中に短歌をばら撒いたと思しき群青を見ていたのだろうことは想像がつく。なにせ短歌の中には、瑠璃色らしき女子に対する恋心を詠ったものがあったのだから。それでも確信が持てないのは私の読解力不足かもしれないし、後述するが、もしかしたら、あえて明示しないように演出されていた可能性もあるかもしれない。ともあれ森本華の瞠目すべき演技は、少女のなかで恋心が累乗的に大きくなっていく様子を、つまり一人の女の子が人間として成長する瞬間を、眼差しの変遷によって見事に表現してみせたのだ。
 クリスマスイブを詠った短歌が描く季節を、冬ではなく夏と読み替える瑠璃色の豊かな想像力は、彼女が眼差していた対象の中に、自分しか気づき得ない美点を見出すだろう。それは都合のよい妄想かもしれない。しかし我々がいくばくかの経験から見知っているように、そのような妄信力こそが恋愛を起動し、推進する力になる。

 物語の終盤、群青を真似た瑠璃色と茉莉が次々と短歌を詠みあげていくと、夕暮れに染まる校舎に囲まれた中庭いっぱいに、青春の情景が満たされていく。青春は、はたかれる黒板消しから舞うチョークの粉や、放課後に軽音楽部から聞こえてくるくぐもったロックミュージック、体育館ですれてキュッキュと鳴る運動靴の音にさえも潜んでいる(ぷらせぼくらぶ!)。もちろん短歌を詠む彼女たちの声もまた、青春を構成する要件そのものだ。
 そうして青春で満たされた水槽のような中庭の底で、3人の女の子が誰かに教わった歌を歌いながら、自分たちの写真を撮っている。当の本人たちは無自覚な、何の変哲もない、しかし美しい日常を切り取りながら、彼女たちは歌う。

  校庭の隅 ヒメリンゴの実
  もぎってかじる ひどく酸っぱい
  夏の匂いと 君の匂いが
  まじりあったら ドキドキするぜ
  時間が本当に もう本当に
  止まればいいのにな

 我々は思う。「この素晴らしい時間が刹那的なものであることは知っている。だから、どうかこの瞬間が停止して、永遠になってくれないだろうか!」と。もちろん、時間は止まることなく流れていく。しかしだからこそ、その時間をどうにかして切り取ろうとする行為は、特別な価値を持つ。

 その昔、90年代の退廃的かつ享楽的な時期の刹那性にいち早く気づき、そこに戯れる自分たちごと切り取った女の子たちの写真群が、驚きをもって迎えられたことがあった。「写るんです」からチェキに移り、写メールを経てスマホに至るまで、過ぎていく瞬間を捉える感覚は、以降、瑠璃色や茉莉や海荷のような、市井の若い女の子たちがずっとリードし続けている。彼女たちの強い感受は、身近な日常がはらむかけがえのなさを本能的にすくい上げてしまうのだろう。
 青春を切り取って見せる手段は、何も写真に限らない。本劇が示したように短歌でもいいし、言葉を使うのであれば、物語にして演じる方法だってあるはずだ。まさに『いつ高』が、我々に見せてくれているように。
 『いつ高』はいつだって青春をありありと切り取り、届けてくれている。今度は受け手である私が、あなたが、そこから想像力を働かせる番だ。作品は、作り手や演者と、我々受け手とのコミュニケーションにほかならない。そう考えると、本劇の限られた演者の数、限られた舞台、(おそらく明示されていないだろう)眼差しの先までもが、想像力を喚起するべく、「不確かさ」をはらむように演出されている気さえするではないか。うわさ話から恋が生まれたように、不確かさには可能性が潜んでいる。 だから誤読を、正解や不正解といった価値基準などを恐れずに、自身の感性で作品を受け取りたい。その態度こそが、新しい感情や関係を生む原動力となるのだ。 


 本劇を受け取って、私はそのように思いを巡らせ、想像したのだった。