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※以下は、2016年4月24日に投稿した感想ツイートを、再構成してまとめたものです。

 ハイバイの舞台を観るのは初めてだった。

 客席でコの字型に囲まれた舞台は、階層別に3つに分けられている。手前の最も低い舞台には応接セットのようなソファと低いテーブルが設えられ、残りの2つの舞台は何もない。そこに、普段着のような男たちが「こんにちはー」と挨拶をしながらひょっこりと現れ、そのまま観劇中の注意事項を説明し始めた。
 はじめは、小劇団特有の客との距離の近さかとも思われた。だが、男たちはそのまま演技に入り、物語が始まった。どこまでが役者の人格で、どこからが役なのか。あるいは、劇はいつから始まっていたのかが判然としないまま話はどんどんと進んでいく。しばらくすると周りの人物の証言によって、若者と思っていた主役の男が、自分を若者だと思い込んでいる痴呆老人だったことが判明する。
 なるほど、“演劇だからこそ”の嘘が巧みに利用されている。同じ俳優が複数の役を担い、シーンごとに年齢も人格も入れ替わるというルールのもとで、役者の容姿が担うリアリズムは最低限に抑えられている。各人物の演じる役は、舞台上での言動、交わされるやり取り、関係性によってその都度固定されるという仕組みだ。これによって、観客に挨拶する俳優自身も、客に注意を口上する俳優も、その俳優が演じる若者も、自分を若者と認識する老人も、ひとつの身体に同居することが可能になる。つまり、一人の役者が、物語だけでなくメタ物語をもシームレスに繋いでいる。

 そのような「メタ」と「物語」の自由な往還を見事に利用していたのが、「ヤジ」の存在だろう。
 本劇は基本的に、腐れ縁である4人の男たちの、それぞれの人生の要所を切り取ったシークエンスの連なりによって物語を組んでいく。その中で彼らは、溜まり場となっている安スナックに度々赴くのだが、その時、焦点が当てられた人物がマイクを持って歌い出したり、喋り出したりする。舞台の最低部にあった応接セットのようなソファは彼らの溜まり場であり、そこだけは時間を経ても彼らの心身の拠り所として、最も深い部分にずっとあり続けているのだろう。だから舞台上でも、その設えだけは常にそこに存在している。そしてその安住の場でくつろぐ男たちは、マイクを持ってひとつ上の舞台に乗った仲間に対し、仲間の人生の外側から、自由に、気楽にヤジを飛ばすのだ。
 男たちのヤジは、壇上の仲間に対する賑やかしであると同時に、やっかみやツッコミだったりして、そのセリフの自然さは作為を感じさせない。われわれ観客が俳優を眺めるのと同じように、ソファに腰掛ける男たちはひとつ上の舞台の仲間を眺め、われわれ観客の内なる声を代弁するかのように、ヤジをいれている。その擬似的な同期や関係性の相似によって、舞台と観客席との心理的な境界は徐々に曖昧なものになっていく。
 さらにヤジはやっかみやツッコミに留まることなく、ひとつ上の舞台で繰り広げられるシーンのナレーションになることもあった。物語上の役柄を超え、物語構成要素の役割さえも担わされたヤジは、その内側から物語の枠をはみ出す象徴的な装置でもあるわけだ。このようにして、物語と観客とを緩やかに繋ぐ仕掛けが、おそらくは演劇の構成や、物理的な舞台構造といったメタレヴェルにおいても企図されている。

 本劇が素晴らしいのは、こうした仕組みが物語の主題と巧みに結び付けられているからに他ならない。
 物語は、4人の男たちの、過度にドラマティックではないもののしっかりと起伏に富んだ「変哲ない」人生を、青年期から中年期を経て死に至るまでを描いていく。そして、人生の多様な悲喜を自然な会話劇で切り取るその鮮やかな筆致は、さまざま人や物、事と繋がり、連なっていくことで人生が存在することを、改めて思い起こさせてくれる。

 ブラック企業に入って死んだ魚のような目で仕事をこなすうちに、何かに熱情をたぎらせるようなこともなく歳を重ねる。風俗の女と仲良くなるくらいで、結婚することなく老いていき、孤独な老後に痴呆して徘徊する男。
 卒業後に就職をせず、大学時代の彼女と結婚するもバイト先の女と不倫。それがバレて愛想を尽かされてなお夫婦を継続する身勝手な振る舞いの結果、老後、ガンに苦しむ妻に頼りにされず、献身すら許されないことに愕然とする男。
 子役として大成するも飲酒癖が祟り芸能の道を挫折。借金を抱えたりしたのちに新興宗教にはまり、かつての栄光を生かして同教団の広告塔に従事。しかし真っ当な生き方をできるわけもなく、不慮の事故で若くして命を落とす男。
 大学卒業後、製薬会社に就職。妻子にも恵まれ、人が羨む堅実な人生を歩んでいたかに見えて、自身のDVによって家庭はとうに崩壊。妻子に軽蔑される人生を送り、親父狩りによって殺される最期を迎えた男。

 彼らの人生は正直に言うと、あまりにも類型化された物語の典型のようだ。しかしそれゆえ、この4人のそれと多かれ少なかれ似たような人生を送る男が私の周囲にも存在するし、なんなら顔も思い浮かんでしまう。あるいは、誰かが私のことを彼ら4人に重ねている可能性だってある。もちろん過剰にならない範囲で戯画化されてはいるとはいえ、4人の人生は本質的には特別に語られるまでもない物語であり、普通の人生の1パターンとさえ言えるだろう。だが、だからこそ本劇においては、語られる価値を持つ。

 『おとこたち』は、男たち4人の人生がわれわれの人生と地続き(シームレス)であることを、脚本のレヴェルだけではなく、演劇の構成や物理的な舞台構造という視座さえも利用して、語りかけている。つまり本劇を観て流すだろう涙は、舞台上の架空の「おとこたち」“だけ”に向けられているわけではない。共感と慈愛を多分に含むその涙は、われわれの人生に関わる多くの「おとこたち」と、泣き濡れるわれわれ自身に捧げられた涙でもあるのだ。