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※以下は、2015年12月20日に投稿した感想ツイートを、再構成してまとめたものです。

 ナイロン100℃『消失』を下北沢は本多劇場にて観劇してきた。wikipediaによると2004年から2005年にかけて上演された作品とのことだが、10年の時を経て再演される意図とは何だろうか?

 舞台は、未来の地球。戦争を経て荒廃した世界の片隅で、身寄りのない2人の成人男性の兄弟が仲むつまじく暮らしている。物語は、彼らが住む家に訪れるさまざまな境遇の人たちの身の回りの小さな生活、日常を描くかのように進行していく。たとえば弟の「スタン」が想いを寄せる女性「スワンレイク」や、兄弟の家に下宿を借りにきた「ネハムキン」とのやり取りは、時折入り込むコミュニケーションの齟齬が笑いを誘い、さながらナンセンス・コメディのようだ。ところが、兄「チャズ」の古い知り合いで、スタンを定期検診している闇医者の「ドーネン」や、ガス修理に来た男「ジャック」の行動が訝しさを増していくにつれて、各人の闇と、絶望的な世界の状況、その輪郭が、徐々に明らかになっていく。
 このような、SFとコメディとサスペンスをない交ぜにした構成は驚くほどエンターテインして観る側を引き込む。端的に言って、頭の中に浮かぶ疑問が次々と解き明かされていくだけでも面白い。しかしそこで紡がれるシークエンスの数々は、ナイロン100℃の作品らしく変わらず「不穏」。徹底して「不穏」。

 生身の人間が演じるという性質上、演劇は映画やテレビに比べて身体性がこれでもかと強調される。そうした演劇において、やはり「死」は、特に強い意味を帯びざるを得ないはずだ。私はナイロン100℃の熱心なファンではないし、何年も見続けているわけではないが、それでも同劇団を主宰するケラリーノ・サンドロヴィッチは、こうした演劇の特性にとりわけ自覚的な方なのだと受け止めている。

 「死」を物語を駆動させるための飛び道具として用いずに、戯曲の中にそっと忍び込ませる。そのためか「不穏さ」は通奏され、次第に増幅されていく。意味の読み取りにくい会話、登場人物たちの過剰に明るい振る舞い、壁や天井に穿たれた不定形な穴、民家に不似合いな金属ダクト、パースの狂った扉、度々差し込まれるノイズといった形で配される、違和の数々。登場人物たちの会話劇に笑いながらも、我々の頭の片隅には、常にその不快感がこびりついている。
 それにしても、本劇の筆を執るケラの、会話によって世界を構築する手腕の見事さといったらない。自然な台詞回しは笑いを生みやすくし、こうした違和にまみれた世界であっても、(日常的な風景として、ではなく)非日常的でない風景として観る側に印象づける。だからこそ、その世界が決定的な異常をきたしたとき、そう、例えば「死」が現れたときの違和は、演劇のメディア特性だけに拠らない特別な価値を持つだろう。

 しかし本劇の白眉は、そのように満を持して放たれた「死」の意味が、身の回りを超えたもっと大きな「世界」の混乱によって一気に相対化されてしまうところだ。人を殺した管理局捜査官の「死体に囲まれてるんだ!」という台詞と、それが示す状況の異常さが、管理局からの突き放すような台詞そのままに「どうでもいいこと」として意味を失ってしまう。
 このとき我々は、人の死だけでなく、うろたえる彼の、管理局の捜査官としての存在意義も失われてしまっていることを意識する。殺したくはないのに、「職務のため」と人を殺した者の、覚悟の意味が消失している。本劇で失われているのは、それだけではない。たくさんの人が死に、記憶は消去され、銅像は爆熱で融解し、カラスは声を失う。振り返ってみれば、さまざまな次元での「消失」が描かれていたのだ。
 抗いようのない世界の暴力が、個々人の小さな消失とそれを孕む生活をあざ笑う様は、現代社会のメタファのようでひどく憂鬱に感じられる。しかし、本当にただただ絶望的なディストピア(つまり今、我々が生きる世界のことだ!)を描いた物語として捉えてもよいのだろうか?

 終劇間際、スタッフロールの後に、劇中で殺された3人が生き残った人たちの前に表れたかと思うと舞台が暗転し、再度その姿を消すシーンが挿し込まれる。明転すると、3人がその前に立っていた壁には、それぞれの影が生々しい輪郭として描かれている。

 この輪郭のように、姿を失えど、人が生きた記憶は関わった人たちの中にありありと残る。だから娘を殺された母親は、娘を探す電話をかけ続ける。スタンの記憶は消されているようでいて、それでも忘れられない思い出がある。焼け融けた銅像もシュールなモニュメントとして残る。声を失わずに美しく泣く鳥もいる。
 失われても失われても、なお残るものがある。本劇は、その希望を描くために演じられているのだと信じたい。