ロロの『いつ高』こと『いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校』のvol.3『すれちがう、渡り廊下の距離って』を、横浜STスポットにて観劇してきた。傑作だった前作『校舎、ナイトクルージング』に劣ることなく、本劇も「青春」への憧憬を掻き立てる素晴らしい内容だった。冬に覚えた歌を忘れてしまう前に、その感想を書き記しておきたい。

 本劇は、新校舎と旧校舎を「繋ぐ」役割を持つ「渡り廊下」をわかりやすい象徴として舞台に据え、人と人を「繋ぐ」コミュニケーションの様々なありようと、それを通じて成長していく高校生を描いていく。
 本劇に限らず、コミュニケーションの手段は別に言葉だけではない。仕草はもちろん、言葉を発さないことで生じる沈黙だって、時に気持ちを伝える雄弁な手段になるはずだ。あるいは写真のようなメディアを介しても、我々は思いを伝えることができる。むしろ言葉を用いたとしても、修辞に懲りすぎたラップのように本末転倒を招いてしまい、意図を伝えられないことだってあるだろう。

 本物語の骨子となっているのは、『フリースタイルダンジョン』を観たことがきっかけでラップにハマった男子高校生「点滅」と、その彼女「田野辺」の関係だ。あまりにラップに傾倒しすぎて、韻を踏まないと話せなくなった点滅に嫌気がさした田野辺は、彼との会話を嫌い、会うことさえも避けるようになってしまった。そんな2人の仲をどうにかして修復できないかと、点滅の友人「太郎」が伝言役を必死になって務めている。
 新校舎と旧校舎の離れた場所にいる2人の会話を繋ぐべく、太郎は両校舎を繋ぐ渡り廊下を何度も往復する。点滅と田野辺のコミュニケーションを困難にしているのは、その物理的な距離であったり、彼女との付き合いが長くなるうちに喧嘩ばかりになった寂しさを埋めようとしてラップに活路を見出すような、お互いを省みない心理的な距離に他ならない。
 「距離」という断絶が2人のコミュニケーションの障害になっている。劇中で言及される『ほしのこえ』はまさに、その距離によって引き裂かれる男女の悲恋を描いていた。地上と宇宙で離ればなれになった2人は、遠ざかる距離の為にコミュニケーションにかかる時間が増大していき、不通になってしまう。通信に用いられる電磁波という絶対的な速度でもっても埋められない、絶望的な断絶。
 太郎は付き合っていた彼女と別離したばかりで、その彼女は学校に来ることもなく、顔を合わすこともできない。その後悔の念もあるのだろうか、太郎はだから、点滅と田野辺の物理的な距離を「速度」によって少しでも縮めるように、校舎内を疾走する。あるいは2人の心理的な距離を縮めようと、互いの話しぶりや仕草を再現するために熱演をする。その献身ぶりは笑いを誘いながらもひどくせつないほどだが、果たして太郎の努力は実を結んだ。押韻癖を克服し、田野辺の大切さに気づき、顔を合わせて話すことを決意した点滅は、彼女がいる教室へといよいよ歩を進める。

 本劇で最も感動的なのは、よりを戻した点滅と田野辺を見つけた太郎が、渡り廊下から遠く離れた教室にいる2人に向けて、大声で「お〜い!」と呼びかけるシーンだろう。太郎は、さっきまで自身が疾走することで縮めていた「距離」という障害、困難を、大きな声という身体性によってたやすく乗り超えてしまっているのだ。遠くにいる友人に大声で、笑顔で呼びかけるその快活な振る舞いの眩しさ。このとき太郎の隣にいる男子生徒の「楽」も、点滅がいる教室を一緒に眺めて微笑んでいる。楽は点滅と同じクラスだった経験があるにも関わらず、とくに会話もない友人未満の、話すのも気まずい関係だったはずだ。しかし、ふとしたきっかけで点滅と太郎のやり取りに参加するうちに、いつしか点滅と田野辺の修復を祝福するまでになってしまった。

 新しい友情が、こんなにも簡単にできあがっている。友だちを作るなんて造作もないことだったはずなのに、どうも我々はそんな大事なことを忘れてしまっていたようだ。イレギュラーでもなんでもいい。なにかの弾みで繋がった関係を豊かに膨らませられれば、そこには新たな感情や物語が瞬時に吹き込まれていく。
 思えば本劇は、渡り廊下ですれ違うばかりだった楽と太郎がぶつかるという不意の事態から始まったのだった。本劇に散りばめられたイレギュラーはそれだけではない。他にも拾った携帯電話にかかってきた、誰とも分からぬ相手との会話。落としてしまったことで、宛先とは別の人に届いた手紙。「ヤフー知恵袋」に投稿された、似た悩みを持つ他人に向けられた助言による後押しなど。こうした本来は企図されていなかったコミュニケーションの数々が、物語を駆動していった。

 もうひとつ、太郎に思いを寄せる女生徒「白子」の成長も忘れてはいけない。拾われていた白子の手紙は、彼女自身の手によって無事に本来の宛先である太郎に届けられた。とはいえ写真だけで構成されたその手紙が、どれだけ正確に気持ちを伝えられるだろうか。もちろん観客である我々も、白子の気持ちは想像するしかなく、彼女の想いが恋愛感情なのか、人間的な興味なのか、あるいはそれ以外なのかを窺い知ることはできず、正解は分からない。
 もしかしたら写真をめくる太郎も、自分に向けられた白子の気持ちを誤読しているかもしれない。それでも白子が、本来望んでいた形とは異なっていたとしても、新たに築かれた関係に満足することはあるだろう。あるいは、目的を達して太郎に興味を失ってしまった可能性だってある。いずれにしても、これまで昼休みに校庭を走る太郎を遠くから眺め、観察するだけだった彼女は、もうその必要はないとばかりに双眼鏡を捨て、渡り廊下から立ち去っていく。その明確な決意は、成長と呼んでいいはずだ。

 本劇が美しく感動的なのは、そうした曖昧な意思疎通による関係の変化や、不測に生じたコミュニケーションといったイレギュラーが新しい「繋がり」をもたらし、これによって人が成長することへの期待を朗らかに称えているからではないか。
 そうした「繋がり」に対する楽天的な前向きさと、物理的な断絶さえも悠々と乗り越える身体性の奔放な発露。それらを兼ね備える特権的な時期を、確か私は「青春」と認識していたのだった。