こんなにも美しい映像が他にどれほどあるだろうか。

 現代に落とされたPOP爆弾、Enjoy Music Club(EMC)のトラックメーカーにして、それ自体がせつなさをかもし出す天賦の鼻声(ポスト小沢健二!)を備えたポップメイカー、江本祐介。そんな彼のファーストシングル『ライトブルー』のMVが、同曲の発売から半年もの期間を経て公開された。
 同MVの監督は、『ライトブルー』の作詞者でもあり、EMCのゆるふわライム担当でもある松本壮史。美術を担当するのが、センスオブワンダーなアニメ&マンガで名を馳せるトップクリエイターにして、EMCのやんちゃラップ担当でもあるひらのりょう。そして演技指導を、いまや『いつ高』で青春演劇の旗手になった、劇団ロロ主宰の三浦直之が務めている。リリース文で公開されたこの贅沢すぎる布陣に心踊り、息をするのも忘れてしまったのは私だけではないはずだ。
 正直、冒頭に貼り付けたYouTubeを観てもらえばその素晴らしさはすぐにわかってもらえるはずで、ひと目見ただけで心をつかまれるくらいに、本MVは特別な感情を呼び起こす。にも関わらず私が足りない筆舌を尽くしてエントリを上げるのは、こうした美しい作品に触れた喜びを(少しでも正確に)他の誰かと分かり合うために他ならない。それだけがこの世の中を熱くするに違いないのだから。

 映像は、地方の高校を舞台に、そこで学ぶ女子生徒たちを中心に据え、文化祭までの7日間を追いかける。その中で、演じられることに決まったダンスの練習を含む文化祭の準備だけでなく、告白だったり、仲たがいだったり、異性との交遊だったり、部活動だったり、たわいもない会話だったりする、校舎内で展開されるさまざまなシーンを、カットを割らないひとつながりの映像である"ワンカット"で駆け抜けていく。
 学校を舞台にワンカットで撮影されたMVと言えば、川島海荷が主演した映画『私の優しくない先輩』のエンディングを思い起こさずにはいられない。そこで披露された『MajiでKoiする5秒前』も大勢によるダンスで大団円を描いており、映像から溢れ出すきらめきは、やはり特別な感動を湛えていた。

 どうも青春のシークエンスを紡ぐのに、ワンカットの演出は相性がいいようだ。
 おそらくはワンカットで演出された映像がもたらす、常に変化し続ける画面の吸引力や、失敗が許されないというメタ的な緊張感、そしてそれが無事に完走したときの達成感が、青春が持つ「一回性」の象徴として機能するからではないか。
 青春の一回性。思春期にだけ許された、無知さゆえの奔放な行動と、それがもたらす自身の人生への劇的な影響は、同時期を特権的に輝かせる。そして人生の経験を積み、知らなくてもいいことばかりを知ってしまった我々にとって、どうしたって青春を取り戻すことは難しい。人生は、いくつになってもやり直せる。やり直せるはずだ。だが、思春期の一瞬一瞬は、やり直しが効かないという意味ではなく、その輝きのまぶしさ、貴重さという点において、「一回性」と呼ぶべきかけがえのなさを担保している。

 私のような簡単な感性の人間にとって、青春のシーンとワンカット演出の組み合わせは、それだけで泣けるほどに相性がよい。もっとも、『ライトブルー』のMVの白眉は、このひとつながりのシーンの中に、時間経過の概念を導入してみせたところにあるだろう。これにより、文化祭当日に向け、日を追うごとに増していく高校生の高揚感と、大サビに向けて盛り上がっていく曲の構成を合致させ、その相乗効果によって映像がもたらす興奮を高めている。
 もちろん、「3日前」から始まる、階段を下りるごとに進行していく文化祭準備の様子のように(徐々に出来上がっていく水色祭の看板など)、「○日前」という文字情報だけではなく視覚映像のレヴェルで時間経過を認識させる工夫を見逃すわけにはいかない。
 あるいは、計3回あるサビに入る瞬間の美しさ。いずれのサビの導入にも少女たちのダンスが添えられているが、最初のサビで、渡り廊下に並ぶ少女たちがそろって踊りだし、身体をしなやかに広げてふわりと回りだしたそのときの、世界に秩序が与えられ一斉に躍動を始めた瞬間の感動を、いったいどのように喩えたらよいのだろうか。彼女たちそれぞれの世界が瞬間、歩みを重ねて動き出す。やがてその動きは拡散し、彼女たちは再び自身の世界を取り戻すだろう。しかしたとえわずかな時間であっても、それぞれの世界が、人生が重なることで代えがたい喜びが生じることを、我々は知っている。そう、彼女たちのダンスが放つ美しさは、各人の人生が交錯する学生時代固有の愉楽と、正しく相似を描いているのだ。
 そして、本MVのハイライトでもある大サビからの演出は見事というしかない。Cメロで溜め込まれる大サビへの期待感を、文化祭で披露されるダンスの本番前の緊張感に重ね合わせるだけでなく、大サビに入った直後の静寂も、ステージのスポットライトに照らされて1人ポーズを取る女の子への注目に寄り添わせている。さらに、その直後に舞台上に全員が集まって踊りきり、ステージを降りて青空の下へ駆け出す大団円までの疾走に至っては、作り上げられたワンカット映像の凄みを離れ、演じる彼女たち自身、その青春のドキュメントのようなリアリティさえ備えていた。

 MVの終わり、演奏が鳴り止んで青空に「ライトブルー」のタイトルが浮かび上がる画面では、演じきった彼女たちの生々しい吐息だけが載せられている。このとき、たしかな生(せい)の息遣いを確認して我々は、ワンカットのできすぎた映像、作り物の世界の裏にある努力と達成、みなで力を合わせて何かをなしえる喜びに思いを馳せるだろう。
 かつて稀代の名作詞家であるつんくは、「いくつになっても青春だよ」と歌をつづった。それは決して、青春から離れて久しい我々に対する慰めではない。事実、主演した少女たちや端々に出演した高校生たちだけでなく、このMVに携わった大人たちの誰にとっても、『ライトブルー』をみなで作り上げた経験は等しく「青春」であるはずだ。そして本MVが持つ、関わったすべての人を青春に巻き込むような不思議な引力、その魔法は、ただの観客である我々をも「青春」に引き込んでくれる。

 本曲の作者である江本祐介は、ツイッターで「ライトブルーの撮影ひと通り終わってスタッフみんないなくなっていわきっ子達だけが残る教室にスッと入って1番後ろの席に座って彼女達がはしゃいでる姿を眺めてたんだけどそこでも上手く話しかけられなくて俺は学生時代から何も変わってないし昔もこんな感じで女の子眺めてたなぁと思い出しました」とつぶやいた(https://twitter.com/y_e1234/status/825827553784975361)。もうひとつ、先日催された佐々木敦とのトークイベントにおける、三浦直之の言も借りたい。いわく、「高校時代の自分は恋愛や熱心な部活動と縁があるわけでもなく、いわゆる"青春"を経験したわけではないが、映画や小説でフィクションとしての青春を楽しむことは非常に好きだった」(※うろ覚えなので詳細は異なるかもしれません)。
 絵に描いたような青春、充実した思春期と縁のなかった彼らの手による映像が、こんなにもキラキラとした青春を描いている。惚れた腫れただ友情だ部活だと充実した高校時代を、すべての人が経験しているわけではない。我々が青春に憧憬を抱くのは、過ぎ去った自身の記憶のよすがとしてだけではない。青春は、思春期に経験されるリアルな情景とは必ずしも地続きではなく、せつなくも美しい時期の具象として、それ自体で独立して存在できるのだ。
 だからたとえ経験していなくても、我々はフィクションの青春に、誰かが経験しているかもしれない自分の人生とは無関係な青春に涙することができる。そしてフィクションの青春で培われた感性が描く青春は、再生産であるがゆえに純度を増し、美しく輝くに違いない。この『ライトブルー』のように。

 いつか、心の奥深くにしまっていたつもりの自分の思春期が、擦り切れ、なくなってしまったように思う日がくるかもしれない。でも大丈夫だ。江本祐介『ライトブルー』のMVを再生すれば、我々はいつだって青春の欠片を取り戻すことができるのだから。