愛と笑いの夜

お笑いライブの感想を偉そうに垂れ流す備忘録でした

 「ブログは年間ベストをやるものだろう!」と思ったものの、どうも私はお笑いも演劇も映画も音楽もマンガもなにもかもが中途半端な入れ込み方しかしていない底の浅い人間であるため、一つの分野で年間ベスト20のようにぶち上げるだけの知識がない。せいぜいできるのは、2016年に私が受けた文化的な体験の中から20を紹介するくらいだろうと思った結果が、本エントリとなった。
 それにしても2016年という年は、私にとっては文化的にとても豊穣であり、その受容によって非常に享楽的な1年となった。端的に言えば、素晴らしく楽しい1年だった。おかげでブログもなんとなく再開した。それもこれも1位になった体験が、私の日常に“パーッと華やぐ魔法をかけ”てくれたからに違いない(さっそくのネタバレ)。ちなみに順位なんて便宜上のものであり、体験に序列をつけること自体が野暮なものだと思っています。まあ、蛇足です。

 ありがとう2016年。ありがとう小沢健二。


20位 大相撲 2016年 9月場所 3日目
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 初めて大相撲を観に行き、いわゆる枡席で名物の焼き鳥を食らい、ビールをたらふく飲んだ。
 この日は序ノ口の服部桜が無気力試合をして客席から声援が飛んだり、横綱・日馬富士に土がついて座布団が飛び交ったり、某有名アニメ映画監督をお見かけしてお声がけできたりと、ただの相撲観戦に止まらない有意義さがあっての、20位。楽しかった。



15位 宝塚 宙組『Shakespeare 〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜』
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 宝塚がこんなにも面白いものだとは思わなかった。やはり歴史を積み重ねている表現には、それだけの強度がある。女性が男性を演じているという要素が受け手に与える影響は多分にあるだろうし、おそらくはその考察はすでに十分なされていて、それが独自の魅力につながっているのだろう。けれども、そうしたことは関係無しに大衆演劇としての出来がよく、わかりやすく面白く、圧倒的に華やか。


18位 吾嬬竜孝『鉄腕アダム』1巻
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17位 岩本ナオ『金の国 水の国』
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16位 ひらのりょう『FANTASTIC WORLD』
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 今年のマンガは個人的に低調だった。もっとも、面白いマンガは当然のようにあって、私が追えていないだけに違いないのだろうけれども。
 吾嬬竜孝『鉄腕アダム』は洋画的なキャラクター造形と科学的な蘊蓄を少年マンガ的なヒーロー物に落とし込む意欲作。話題作『ファイアパンチ』よりも私は買っている。
 前作『町でうわさの天狗の子』で、物語の後半で『もののけ姫』ばりの驚くような想像力を見せつけてくれた岩本ナオの最新作は、『カリオストロの城』ばりのウェルメードな小話といった感じで、2時間の映画にするのにぴったり。『このマンガがすごい』でも上位に入ったらしいが、むべなるかな。
 結局、今年もっとも面白いと思ったマンガは、マンガ畑の外からやってきたひらのりょう『FANTASTIC WORLD』だった。芸術アニメの制作者でありミュージシャンでもある作者の奔放な活動は、マンガにあってもまったくぶれることなく独自の世界を築いている。宮崎駿『風の谷のナウシカ』の例に漏れず、アニメーターが描くマンガは、絵は驚くほど達者であってもコマ運びといったマンガの文法面において厳しい結果になることが多い中にあって、本作は、めくりやヒキ、コマ運びによる視線誘導においても十分な達成を見せてくれる。もちろん、繰り広げられる幻想的な世界はセンスオブワンダーとしか形容のしようがないもので、『AKIRA』や『エヴァンゲリオン』といった過去の名作からの影響を屈託なく披露していて素晴らしい。もっとこの世界を見せてほしいと、誰もが思うはずだ。


15位 Brian Willson『Pet Soundsライブ』
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著:ジム・フジーリ/訳:村上春樹『ペットサウンズ』より
 「しかし早晩、六〇年代のポップ・ミュージックのおおかたは忘れ去られてしまうことだろう。それらの歌は、今日の我々にとっての二十世紀初頭のヒット・ソングと同じように、日常生活から姿を消してしまうはずだ。
 時は移り、新しいものごとが我々を喜ばせ、我々に情報を与え、我々の人生を形づくっていくことになる。これは避けがたい成り行きだ。しかしたとえそうなっても、自分が今いる場所と、自分がこれから向かおうとしている場所とのはざまで、あるいは少年時代の静けさと、これからやってくるはずの波乱に満ちた未来とのはざまで、途方に暮れている人々で世界は満ちているはずだ。
 このような未来の世界に一人の少年がいる。彼はひどく怯えている。
 世界は大きな、不吉な場所だ。そして彼には頼るべき人もいない。誰も彼を理解してはくれない。 ほら、ちょっとこれを聴いてごらんよ、とそんなときに誰かが言う。
 『ペットサウンズ』だ。
  チャイムのような音のするギター、天国に上り詰めていくようなヴォイス。そこには生き生きとした感情がある。心が剥き出しにされる。まもなく少年は知ることになる。自分はひとりぼっちではないのだ、と。
 そして世界は再びまわり始める。」

14位 ハイバイ『おとこたち』
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13位 ロロ『校舎、ナイトクルージング』
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 どちらも素晴らしい演劇だった。個別の感想は、どうぞ本ブログの別エントリを参照してください。あ、『校舎、ナイトクルージング』の感想は書いていなかったか。いつかツイートをまとめる形で、書きます。


12位 曲沼美恵『メディア・モンスター:誰が「黒川紀章」を殺したのか?』
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 数十ページ読んだだけで傑作とわかる労作。同様のノンフィクション『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』とは、骨太なドキュメンタリーであると同時に昭和という時代を切り取った社会文化史であるという点でも似ている。
 そもそも固有の土地に立つ一点物である建築自体が、写真というメディアを通してイメージ的に作品を伝播せざるをえない側面を持つ。つまり黒川紀章が、メディアが花開いた昭和の時代にセルフプロデュースで圧倒的な成功を得られた要因は、建築家の職能としてメディアの特性を把握していたところにもあるのだろう。
 それにしても昭和もはるか遠くになった現在、建築はどのような状況を迎えているのだろうか?


11位 伊東豊雄『新国立競技場B案シンポジウム』


 新国立競技場を巡るいざこざが、不可解な採点により隈研吾がデザイン監修(設計ではなく)をしたA案の採用で決着したのは周知の事実だろう。それを不服とするB案チームを迎えた本シンポジウムは、アトリエ系建築家のトップである伊東豊雄とトップゼネコンチームの高次元での協働、その達成をつぶさに聞くことができるという点で、興奮を禁じ得ないものだった。
 どうも建築は、メディアを制すれば評価を得られるといったレベルを超えて、さらに困難な状況を迎えているようだ。

10位 神田松乃丞『義士とお化け』
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 講談のことは何も知らないけれども、演じるという次元において考えるに、神田松乃丞は天才であると断言してしまいたい。特に『吉原百人斬り「お紺殺し」』で見せた、次郎左衛門の演技を演じるという入れ子構造は、彼の圧倒的な演技力を十二分に示していた。
 めざといファンは当然松乃丞を発見しており、二ツ目にしてその人気は揺るぎない。伝統芸能の新旗手の今後を、意識的に追いかけねば。


9位 ランジャタイ『M-1GP2回戦 宇宙大戦争』
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 そして講談と同じく、一人芝居の伝統的な話芸である落語。
 その落語に現在性を取り戻した孤高の天才漫才師ランジャタイは、2013年12月9日のベストエンタで初めてその芸を目の当たりにして以来、ずっと私の生活の中心であり続けている。
 2014年、2015年、2016年と賞レースの優勝を信じて止まなかったのだけれど、本年の結果はM-1グランプリ準々決勝敗退となった。まあ、受けていなかったのだから仕方ない。
 そんな彼らの軌跡にあって、2回戦の『宇宙大戦争』の出来は白眉と評するに相応しいものだった。漫才の未来は、彼らと共にある。どうか一人でも多くの人が、彼らの笑いを理解してくれますように。


8位 庵野秀明『シンゴジラ』


7位 片渕須直『この世界の片隅に』

 あの日から5年を経て、作り手と受け手のどちらの感受にも大きな影響が残っていることが露わになった。それが特に顕著になったメディアが映画だったのは、いったいなぜなのだろうか? 嬉しい誤算は、『シンゴジラ』も『この世界の片隅に』も『君の名は。』も、前向きな想像力でまとめられていたところだろう。
 世界が続く以上、我々は生きていかなくてはならない。辛いことを過度に思い出すこともなくして、少しずつでも前を向いて歩き始めなくてはいけない。過ぎていく日々を踏みしめて僕らは行くのだ。


6位 木村一基『王位戦七番勝負』
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 今回も木村一基はタイトルを獲れなかった。何度も挑戦して、そのたびに獲得間近になりながらも、やっぱり勝利の女神は彼に微笑まない。
 そんな木村一基という棋士に将棋ファンが抱く愛情は、特別だ。それは決して判官贔屓などではない。安い浪花節では、決してない。彼は、強い弱いという次元を超えて、棋士の存在理由をわかりやすく示してくれているからだ。
 将棋がしばしば人生の比喩にあげられることを、私は肯定している。そして木村一基という棋士は、人生の比喩そのままに、「生きる」ことの悲喜を美しいまでの純度で体現してくれている。


5位 Enjoy Music Club『エンジョイスーパーライブ』
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4位 片想い『QUIERO V.I.P.』@京都
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3位 ザ・なつやすみバンド『tour fantasia』@東京
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 Enjoy Music Clubのライブは今一番幸せで、片想いのライブは今一番楽しくて、ザ・なつやすみバンドのライブは今一番格好いい。
 それにしても、なんとなく足を運んだエンジョイスーパーライブが、今年の後半のあり方を変えてしまった。そしてエンジョイスーパーライブを受け、中川さんの声に惚れて観に行ったザ・なつやすみバンドの『tour fantasia』@東京の素晴らしさたるや! 特に生管弦楽器勢+パーカッションの編隊で披露された『ラプソディー』はただただ圧巻だった。こんなにも格好いい演奏が披露されるライブは、もっとたくさんのお客さんに目撃されてほしいものだが、果たしてこんなネットの片隅のブログに何の影響力があるだろうか。

2位 馬車楽亭馬太郎『パカラ』
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 大天才・国崎和也(ランジャタイ)による創作人情物落語は、彼がその驚くべき笑いの才能を、漫才以外で示して見せた衝撃作にして問題作。同時に、落語からの多大なる影響を包み隠さず開陳したという意味でも、非常に意義深い表現となっていた。
 2016年、板橋にある公民会の会議室で、落語に現在性を取り戻しつつ、笑いの未来に先鞭をつける実験が密かに、しかし大胆に行われていた。その目撃者になれたことを、笑いの神に感謝したい。


1位 小沢健二『魔法的』
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 語る言葉を持ちません。新曲はいずれも素晴らしかったです。

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※以下は、2016年4月24日に投稿した感想ツイートを、再構成してまとめたものです。

 ハイバイの舞台を観るのは初めてだった。

 客席でコの字型に囲まれた舞台は、階層別に3つに分けられている。手前の最も低い舞台には応接セットのようなソファと低いテーブルが設えられ、残りの2つの舞台は何もない。そこに、普段着のような男たちが「こんにちはー」と挨拶をしながらひょっこりと現れ、そのまま観劇中の注意事項を説明し始めた。
 はじめは、小劇団特有の客との距離の近さかとも思われた。だが、男たちはそのまま演技に入り、物語が始まった。どこまでが役者の人格で、どこからが役なのか。あるいは、劇はいつから始まっていたのかが判然としないまま話はどんどんと進んでいく。しばらくすると周りの人物の証言によって、若者と思っていた主役の男が、自分を若者だと思い込んでいる痴呆老人だったことが判明する。
 なるほど、“演劇だからこそ”の嘘が巧みに利用されている。同じ俳優が複数の役を担い、シーンごとに年齢も人格も入れ替わるというルールのもとで、役者の容姿が担うリアリズムは最低限に抑えられている。各人物の演じる役は、舞台上での言動、交わされるやり取り、関係性によってその都度固定されるという仕組みだ。これによって、観客に挨拶する俳優自身も、客に注意を口上する俳優も、その俳優が演じる若者も、自分を若者と認識する老人も、ひとつの身体に同居することが可能になる。つまり、一人の役者が、物語だけでなくメタ物語をもシームレスに繋いでいる。

 そのような「メタ」と「物語」の自由な往還を見事に利用していたのが、「ヤジ」の存在だろう。
 本劇は基本的に、腐れ縁である4人の男たちの、それぞれの人生の要所を切り取ったシークエンスの連なりによって物語を組んでいく。その中で彼らは、溜まり場となっている安スナックに度々赴くのだが、その時、焦点が当てられた人物がマイクを持って歌い出したり、喋り出したりする。舞台の最低部にあった応接セットのようなソファは彼らの溜まり場であり、そこだけは時間を経ても彼らの心身の拠り所として、最も深い部分にずっとあり続けているのだろう。だから舞台上でも、その設えだけは常にそこに存在している。そしてその安住の場でくつろぐ男たちは、マイクを持ってひとつ上の舞台に乗った仲間に対し、仲間の人生の外側から、自由に、気楽にヤジを飛ばすのだ。
 男たちのヤジは、壇上の仲間に対する賑やかしであると同時に、やっかみやツッコミだったりして、そのセリフの自然さは作為を感じさせない。われわれ観客が俳優を眺めるのと同じように、ソファに腰掛ける男たちはひとつ上の舞台の仲間を眺め、われわれ観客の内なる声を代弁するかのように、ヤジをいれている。その擬似的な同期や関係性の相似によって、舞台と観客席との心理的な境界は徐々に曖昧なものになっていく。
 さらにヤジはやっかみやツッコミに留まることなく、ひとつ上の舞台で繰り広げられるシーンのナレーションになることもあった。物語上の役柄を超え、物語構成要素の役割さえも担わされたヤジは、その内側から物語の枠をはみ出す象徴的な装置でもあるわけだ。このようにして、物語と観客とを緩やかに繋ぐ仕掛けが、おそらくは演劇の構成や、物理的な舞台構造といったメタレヴェルにおいても企図されている。

 本劇が素晴らしいのは、こうした仕組みが物語の主題と巧みに結び付けられているからに他ならない。
 物語は、4人の男たちの、過度にドラマティックではないもののしっかりと起伏に富んだ「変哲ない」人生を、青年期から中年期を経て死に至るまでを描いていく。そして、人生の多様な悲喜を自然な会話劇で切り取るその鮮やかな筆致は、さまざま人や物、事と繋がり、連なっていくことで人生が存在することを、改めて思い起こさせてくれる。

 ブラック企業に入って死んだ魚のような目で仕事をこなすうちに、何かに熱情をたぎらせるようなこともなく歳を重ねる。風俗の女と仲良くなるくらいで、結婚することなく老いていき、孤独な老後に痴呆して徘徊する男。
 卒業後に就職をせず、大学時代の彼女と結婚するもバイト先の女と不倫。それがバレて愛想を尽かされてなお夫婦を継続する身勝手な振る舞いの結果、老後、ガンに苦しむ妻に頼りにされず、献身すら許されないことに愕然とする男。
 子役として大成するも飲酒癖が祟り芸能の道を挫折。借金を抱えたりしたのちに新興宗教にはまり、かつての栄光を生かして同教団の広告塔に従事。しかし真っ当な生き方をできるわけもなく、不慮の事故で若くして命を落とす男。
 大学卒業後、製薬会社に就職。妻子にも恵まれ、人が羨む堅実な人生を歩んでいたかに見えて、自身のDVによって家庭はとうに崩壊。妻子に軽蔑される人生を送り、親父狩りによって殺される最期を迎えた男。

 彼らの人生は正直に言うと、あまりにも類型化された物語の典型のようだ。しかしそれゆえ、この4人のそれと多かれ少なかれ似たような人生を送る男が私の周囲にも存在するし、なんなら顔も思い浮かんでしまう。あるいは、誰かが私のことを彼ら4人に重ねている可能性だってある。もちろん過剰にならない範囲で戯画化されてはいるとはいえ、4人の人生は本質的には特別に語られるまでもない物語であり、普通の人生の1パターンとさえ言えるだろう。だが、だからこそ本劇においては、語られる価値を持つ。

 『おとこたち』は、男たち4人の人生がわれわれの人生と地続き(シームレス)であることを、脚本のレヴェルだけではなく、演劇の構成や物理的な舞台構造という視座さえも利用して、語りかけている。つまり本劇を観て流すだろう涙は、舞台上の架空の「おとこたち」“だけ”に向けられているわけではない。共感と慈愛を多分に含むその涙は、われわれの人生に関わる多くの「おとこたち」と、泣き濡れるわれわれ自身に捧げられた涙でもあるのだ。



 青山のイメージフォーラム・シネマテークで、映画『だれも知らない建築のはなし』を観てきた。映画と建築のどちらに関しても門外漢であるため感想を記すのは難しいかと思われたものの、建築家不在でも建築が成立してしまう状況への危惧、たとえば世界中に金太郎飴のようなショッピングモールをあふれさせる経済優先の論理の前にあって、建築家に存在意義はあるのだろうか? という問いは、建築に限らない射程の広いテーマとして受け留められた。
 本映画の基本構造は、1982年に催された「P3会議」の出席建築家へのインタビューをつなぎ合わせ、70年代以降の建築史をひもとくというものだ。なかでも3人の日本人建築家、安藤忠雄と伊東豊雄、磯崎新のキャラクターの違いによる発言の差異は、「大阪万博以降、つまりは建築において“大きな物語”が機能しなくなった70年代以降を、建築家がどのように社会にコミットしてきたのか?」という史実を多角的に検証する資料として、有意義に働いていた。屹立した孤高のミニマリストである安藤は、常に自分以外との戦いという視線で社会を語っているし、建築アカデミズムの中心から出てきた伊東は、常に厳しい批判の視線で社会を捉えている。

 建築家不在でも建築が成立してしまう状況。劇中で磯崎新は、自身の興味は都市計画などに移っているとしながらも、これからの建築家像として「エンジニアかテクノクラート、あるいはアーティストになるべきか?」というシナリオを想定していた。なるほど、均質化が進み第一に経済、次に政治や市民の論理が優先されるようになった社会にあって、アーキテクト然とした旧来的な振る舞いをする建築家は、もはや価値なき存在となっているのだろうか。
 ディープ・ブルーショック以降のチェスの世界においては、局面の最善手を求めるだけならコンピュータに訊ねるのが“最善手”となった。簡単に言えば、強い・強くないだけが基準の世界においては、グランド・マスターはコンピュータによって代替可能と捉えられようになってしまったわけだ(もっとも、チェスの世界ではコンピュータチェスの普及により競技人口が増え、レッスンプロの需要はむしろ高まっているという)。
 これは文化的、芸術的側面を強く持つチェスだからまだいい話で、そうではなく経済価値を至上とする世界であれば、アルゴリズムが取って代われそうな職能は、早晩その価値を失ってしまうのだろう。なぜなら儲かる・儲からないが基準の世界では、与条件を代入してアルゴリズムで自動的に弾き出された生成物であっても、十分な価値を持ってしまうからだ。そして悲しいかな、そうした経済の論理は、現在の世の中にかなり強固な価値基準として横たわっている。

 映画は、そのような社会において建築家が必要とされなくなってしまったいきさつを、特に日本におけるバブルの隆盛と崩壊、つまりは経済の論理が支配力を増していった過程を通して描いていく。
 なかでもその象徴として取り上げられたのが、バブル華やかりしころに福岡で計画されたネクサス・ワールドだ。そして旧来的な建築家である磯崎新がコーディネートしたこの分譲マンションの商業的な失敗(あくまで当時の価値基準によるものだが)と、その直後に同デベロッパーが、商業施設専門で建築的な評価を得ていないジョン・ジャーディを御して進めたショッピングモールの成功というコントラストは、以降の建築界に落ちた深い影の現れとなった。経済の論理の前で、建築家不在で作られた建築のほうが高い価値を持ってしまったそのとき、「建築家は必要なのか?」という問いが説得力を持って起ち上がってしまったというわけだ。

 現在。現在において自身の存在意義を示すために、建築家はいかに振る舞うべきか。本映画のラストに投じられるのは、特に3.11以降にその問題意識と格闘しながら、「みんなの家」のような地域と住民に根ざした建築を生み出し続けている伊東豊雄の言葉だ。
 70年代以降だけでも、建築界には様々な変化が生まれ、いくどもの淘汰が行われてきた。メタボリズムブームの終焉とポストモダニズムの失敗、モダニズムを超え普遍化したミニマリズム、脱構築ブームをもたらしたコンピュータ革命。伊東は、そうした建築界のさまざまな潮流に、時に抗い、時に飲み込まれながら、自らの存在意義を勝ち得てきた、本当に稀有な建築家だ。その伊東がこぼす言葉の持つ意味は大きく、重い。
 伊東は、自分は批判・批評の論理を建築にしてきたと言う。一度、それ以外のロジックで設計をしてみたいとすら言う。その時々の社会への深い眼差しが生み出す優れた批評や、人間はかく生きるべしという確固たる思想を著す手法で、彼は建築を生み出してきた。いくら日本の建築家が欧米世界でもてはやされようと、意匠のみの評価などにいったいなんの意味があろうか? とも、伊東は言う。
 与条件の達成度を測るだけならアルゴリズムとエンジニアがあればいいし、ご高説を垂れるだけならテクノクラートであればいいし、見た目の美しさのみを競うならアーティストであればいい。そうではなく、己の思想を、言語ではなく、三次元の構造物として具象化する。そこに、建築家が建築家たる所以があるのではないか。少なくとも伊東に関しては、そのような建築を世に問い続けることで、凡百の建築家がたどり着けない彼岸に到達しえたように映るのだが。

 果たしてこの問題は、前述したチェス界と通底しているように、なにも建築家に限ったものではない。およそクリエイティブとされる営為全般、おそらくはデザイナーにだって編集者にだって、作家にだって適用できるだろう。もちろんそれは映画監督にだって同じことで、本映画の主題は、撮影した監督自身にもブーメランのごとく突き刺さってくる。ハリウッド映画の脚本の筆がマーケティングと合議制に取って代わられ、監督固有の物語が影を潜めるようになった現在、小劇場でしか上映できない、商業的な大成功を望めない映画の監督に、存在価値はあるや否や?

 もちろん本映画を鑑賞しに青山まで足を運ぶような人たちにとっては、建築家も、デザイナーも編集者も作家も、映画監督もおしなべて存在価値を持つに違いない。なぜならわれわれは、たとえ霞を食らってでも、思想や哲学を持った人間が作り出すものの美しさ、優れた建築やデザイン、記事、文章、映画に触れたときの喜びを糧に、それぞれの生を彩っていくと決めたのだから。


 早くも傑作の呼び声が高く、今さら私なんかが感想を書く意味はなさそうだけれども、自分がどのように感じたかを、誰かの批評に左右されてしまう前に書き留めておきたい。このブログは、自分の好みすらも誰かの顔を窺いながら決定するような、そんな気分に迎合しないためのささやかなレジスタンスなのだから。


 原作は、こうの史代の同名マンガ『この世界の片隅に』。
 こうのが描くかわいらしいキャラクターたちが、スクリーンの中で躍動している。手と足が大きくて丸いキャラ絵が、ディズニーから派生した手塚治虫の絵を彷彿とさせることもあってか、まるでアニメートする時を待っていたかのようにさえ感じられた。映画の冒頭、主人公の女性「すず」が壁を利用して一人で荷物を担ぐ姿を丹念に追う描写だけを取っても、その自然かつさりげない運動がキャラクターの存在感を高めている。それは「絵に命が吹き込まれる」という、アニメーションそのものが持つ原初的な快感を湛えているかのようだ。

 本映画を貫くのは、主人公・すずのモノローグだ。
 すずは快活でお調子者で働き者で、でも少しとぼけた雰囲気を持った市井の人だ。ただし彼女は、絵を描くことがとても得意という、ひとつの特徴的な個性を持っている。それもあって映画には度々、彼女が創作したお話を絵に表すシーンや、風景をスケッチするシーンが差し込まれる。
 特にスケッチに顕著なように、絵を描くことは対象の観察者になるという側面を持っている。風景や人物を描くということは、客観で世界を相対化しつつも、主観的に構築し直していく作業と言えないだろうか。つまり絵を描くときにその主体は、ごく自然に客観と主観を往還している。そしてすずは、そうした主客が共存した視点で世界を捉えている女性なのだ。
 例えば、幼なじみの「哲」の代わりに国民学校の授業の課題絵を描くシーン。哲が「海に寄せ立つ白波がウサギのようだ」と喩えたことを受けてすずがその筆を運ばせると、世界はまさに幾羽ものウサギが飛び跳ねる情景して立ち現れる。あるいは、呉市を襲う爆撃機に対する砲撃シーン。空に浮かぶ色とりどりの砲煙は、すずが眺めるうちに、空色のキャンパスに筆の穂先で絵の具を配する描写へと置き換わっていく。このとき劇中では、すずの内語として「こんな時でも絵の具があったらと思ってしまう」といった主旨のことも表され、彼女自身、世界を相対化する気質を自覚していることがわかる。
 そうした演出が特に印象づけられるのが、すずが右手を失ったことを自問するシーンだろう。絵を描く際に用いる右手は、彼女にとって世界を把握する手段でもあった。その右手を失ったという認識をすずが確かにするにつれ、つまり、すずが世界を正しく捉えられなくなるに従って、スクリーンに描かれた世界を形作る輪郭線は崩れ、あたかも左手で描かれた絵のように歪になっていく。
 こうしたシーンの数々が、前述したモノローグの多用ともあいまって、本映画がすずの視点で描かれていることをわかりやすく示してくれる。もちろん、作品中の絵が世界を形作る絵自体にそのまま置き換わっていく演出は、そうした効果だけではない、アニメーションやマンガでしか不可能な映像表現として特別な感動を沸き起こすだろう。

 本映画の興味深い点は、このようにすずが捉えた世界と思わせるにも関わらず、あたかもパンフォーカスで捉えたかのように、画面に描かれた隅々までの目配せを感じさせるところだ。と言うのも、本映画を観ると、俯瞰ショットや全身が映るようなロングショットが強く印象に残るのだ。例えばすずと夫・「周作」が橋の上で話すシーンなどは、正面やサイドからのバストショットで2人だけを捉えてもよさそうなものだが、映画では俯瞰ショットにして背後の通行人たちも描いていた。このシーンに限らず、特定の人物を中心に彼らの演技を追って物語を駆動するのではなく、背景に映る群集さえも営為の活写によって比較的等価に扱おうとするその手つきは、世界そのものを描くのだという意志を感じさせるようだ。
 また、本映画の制作にあたって、片渕須直監督が膨大な資料を詳細にあたり、執拗なまでのロケハンを繰り返したことはよく知られている。その甲斐あってだろうか、背景も含め、映画に描かれるあらゆるものに新鮮な驚きがある。例えば戦前のクリスマスのシーン、目抜き通りを陽気に踊るサンタクロースの描写などは、物語上の要請がないにも関わらず目を見張ってしまった。こうした説得力が画面の端々に備わった結果、本映画は演出の枠を超え、画面のあらゆるものに焦点が行くような印象を抱かせるのだろう。

 世界が、パンフォーカスで描かれている。我々は、すずのモノローグを聞き、すずの内面を反映した演出を観て、すずに感情移入しながらも、どこかで彼女にさえも特別な価値を置くことなく、眼前に構築された世界を眺めている。この主観と客観が歪に共存している視点は、絵を描くという行為のそれにどこか似ていないだろうか。つまり本映画は、その構造からして、絵を描く主体である「すず」という女性に寄り添っているように感じられるのだ。

 そうまでして、なぜ「すず」という女性を描くのだろうか? 彼女は別に特別な女性ではなく、戦争という時代を生きた、ひとりの“普通”の女性であるはずだ。
 この、すずに対する「普通」という評価は、劇中、すずの初恋の相手でもある哲の言葉として何度も繰り返される。
 お国のために死ぬことを約束された兵隊である哲は、日ごろから、おそらく同情心からある程度のことを許容されているのだろう。「死に遅れた」と自嘲する哲に対し、すずの家族ばかりでなく周作さえも遠慮がちで、すずと哲の過去への嫉妬もあってか引け目を感じさせる。しかしすずは違う。子どもの頃のように自分をからかう哲に怒り、哲に必要以上の同情心を抱くこともなく、周作への愛情が勝って哲に抱かれることを拒む。そうして自分を差し出した周作への怒りを露にするすずを、哲は「当たり前のことで怒って、当たり前のことで謝る。お前は、普通だ」と評するのだ。
 おそらくここで言う「普通」は、世相や気分といった抗いがたい状況に振り回されて哲に気を遣いすぎるような、一般的な人々の価値観を指してはいない。こうした不条理とは無関係に屹立する、当たり前のことに笑い、当たり前のことに泣き、当たり前のことに怒るような、当たり前な「人のあり方」を指している。そのため戦争によって世界が異常さを帯びるほど、すずが備える「普通」は、相対的に特別な価値を持つことになる。同時に、いつかは取り戻したいと願われる平常として、異常な世界に灯る希望にもなるだろう。だからすずは、皆に愛されている。

 映画の終盤、そのように世界に異常さをもたらしていた戦争が、ようやく終わりを迎える。
 ただし終戦という大きな契機を迎えても、別に世界が終わるわけではない。つらい生活をやり過ごす我慢のタガが外れ、絶望的な気持ちになり、「世界が終わったらどんなに楽だろうか」と思ってしまっても、慈悲もなく日々は続く。1945年8月15日は確かに重要な日ではあるけれども、過ぎていく膨大な日々の中の1日でしかないこともまた事実なのだ。
 世界が続く以上、片手を失ってなお、すずは生きていかなくてはならない。闇市に並び、かつての敵国兵に食べ物を乞い、彼らの残飯を漁ってでも、人々は生きていかなければならない。そのうちに、我々は辛いことを過度に思い出すこともなくなり、少しずつでも前を向いて歩き始めるだろう。それが生活というものだ。

 生活。思えば本映画は、執拗なまでに人々の営みを描いていた。物語の構造としてすずに寄り添ってはいるが、この映画の真の主役はすずではなく、すずの眼で捉えた、すず自身を含むこの時代の人々の「生活」なのではないか。むしろ生活を描くための視点として、大きく揺らぐことのない普通という価値観に立脚し、主観と客観の両方で世界を把握できるすずという女性が選ばれた、という見立てが相応しいのかもしれない。もちろん、そうして描かれた生活に宿る悲喜の数々を本映画がどれだけ大切にしているかは、たくさんの愛らしいキャラたちが画面のいたるところで生き生きと動く様だけを取っても、十分な説明になっているはずだ。

 映画は、そのような「生活」に美しい結末を用意している。
 子どもに恵まれなかったすずと周作は、原爆で母親を失った女の子を急に家族として迎えることにして、北条家の皆もそれを歓迎する。北条家に突然嫁いだすずが、「嫌な人かどうかも分からなかった」周作との間に愛情を抱くようになり、紛れもない夫婦になっていったように、彼らはみな、日々の苦楽を共にすることの強さを知っているのだ。防空壕に迷い込んだ猫も、一度は嫁いで出戻った周作の姉「徑子」も、いつしかすずのかけがえのない家族になっていたように、どこにでも愛が宿ることを信じている。
 このように、理由があろうがなかろうが、人々が寄り添い生活するという営みの可能性を、本映画は堂々と肯定して終わる。

 それはまるで、世界の片隅で、過ぎていく日々を踏みしめていく我々すべてに捧げられた、あまりにも真っ直ぐな賛歌ではないか。
 だから、ありがとうと言いたい。『この世界の片隅に』は、私の、あなたの日々の営みを、生活を、慈しんでくれているのだから。

 

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※以下は、2015年12月20日に投稿した感想ツイートを、再構成してまとめたものです。

 ナイロン100℃『消失』を下北沢は本多劇場にて観劇してきた。wikipediaによると2004年から2005年にかけて上演された作品とのことだが、10年の時を経て再演される意図とは何だろうか?

 舞台は、未来の地球。戦争を経て荒廃した世界の片隅で、身寄りのない2人の成人男性の兄弟が仲むつまじく暮らしている。物語は、彼らが住む家に訪れるさまざまな境遇の人たちの身の回りの小さな生活、日常を描くかのように進行していく。たとえば弟の「スタン」が想いを寄せる女性「スワンレイク」や、兄弟の家に下宿を借りにきた「ネハムキン」とのやり取りは、時折入り込むコミュニケーションの齟齬が笑いを誘い、さながらナンセンス・コメディのようだ。ところが、兄「チャズ」の古い知り合いで、スタンを定期検診している闇医者の「ドーネン」や、ガス修理に来た男「ジャック」の行動が訝しさを増していくにつれて、各人の闇と、絶望的な世界の状況、その輪郭が、徐々に明らかになっていく。
 このような、SFとコメディとサスペンスをない交ぜにした構成は驚くほどエンターテインして観る側を引き込む。端的に言って、頭の中に浮かぶ疑問が次々と解き明かされていくだけでも面白い。しかしそこで紡がれるシークエンスの数々は、ナイロン100℃の作品らしく変わらず「不穏」。徹底して「不穏」。

 生身の人間が演じるという性質上、演劇は映画やテレビに比べて身体性がこれでもかと強調される。そうした演劇において、やはり「死」は、特に強い意味を帯びざるを得ないはずだ。私はナイロン100℃の熱心なファンではないし、何年も見続けているわけではないが、それでも同劇団を主宰するケラリーノ・サンドロヴィッチは、こうした演劇の特性にとりわけ自覚的な方なのだと受け止めている。

 「死」を物語を駆動させるための飛び道具として用いずに、戯曲の中にそっと忍び込ませる。そのためか「不穏さ」は通奏され、次第に増幅されていく。意味の読み取りにくい会話、登場人物たちの過剰に明るい振る舞い、壁や天井に穿たれた不定形な穴、民家に不似合いな金属ダクト、パースの狂った扉、度々差し込まれるノイズといった形で配される、違和の数々。登場人物たちの会話劇に笑いながらも、我々の頭の片隅には、常にその不快感がこびりついている。
 それにしても、本劇の筆を執るケラの、会話によって世界を構築する手腕の見事さといったらない。自然な台詞回しは笑いを生みやすくし、こうした違和にまみれた世界であっても、(日常的な風景として、ではなく)非日常的でない風景として観る側に印象づける。だからこそ、その世界が決定的な異常をきたしたとき、そう、例えば「死」が現れたときの違和は、演劇のメディア特性だけに拠らない特別な価値を持つだろう。

 しかし本劇の白眉は、そのように満を持して放たれた「死」の意味が、身の回りを超えたもっと大きな「世界」の混乱によって一気に相対化されてしまうところだ。人を殺した管理局捜査官の「死体に囲まれてるんだ!」という台詞と、それが示す状況の異常さが、管理局からの突き放すような台詞そのままに「どうでもいいこと」として意味を失ってしまう。
 このとき我々は、人の死だけでなく、うろたえる彼の、管理局の捜査官としての存在意義も失われてしまっていることを意識する。殺したくはないのに、「職務のため」と人を殺した者の、覚悟の意味が消失している。本劇で失われているのは、それだけではない。たくさんの人が死に、記憶は消去され、銅像は爆熱で融解し、カラスは声を失う。振り返ってみれば、さまざまな次元での「消失」が描かれていたのだ。
 抗いようのない世界の暴力が、個々人の小さな消失とそれを孕む生活をあざ笑う様は、現代社会のメタファのようでひどく憂鬱に感じられる。しかし、本当にただただ絶望的なディストピア(つまり今、我々が生きる世界のことだ!)を描いた物語として捉えてもよいのだろうか?

 終劇間際、スタッフロールの後に、劇中で殺された3人が生き残った人たちの前に表れたかと思うと舞台が暗転し、再度その姿を消すシーンが挿し込まれる。明転すると、3人がその前に立っていた壁には、それぞれの影が生々しい輪郭として描かれている。

 この輪郭のように、姿を失えど、人が生きた記憶は関わった人たちの中にありありと残る。だから娘を殺された母親は、娘を探す電話をかけ続ける。スタンの記憶は消されているようでいて、それでも忘れられない思い出がある。焼け融けた銅像もシュールなモニュメントとして残る。声を失わずに美しく泣く鳥もいる。
 失われても失われても、なお残るものがある。本劇は、その希望を描くために演じられているのだと信じたい。

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