愛と笑いの夜

お笑いライブの感想を偉そうに垂れ流す備忘録でした

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 ギャラリー・間で催された藤本壮介「未来の未来」展は、ここ最近で見た建築に関する展覧会の中でも、白眉と呼ぶべきものだった。

 最初の展示室では、黒一色の壁面で囲まれたスペースに、一本の真っ黒な棒で支えられた建築模型が雑然と並べられている。あたかも模型が空中に浮かんでいるかのような演出が企図され、さらには壁面の一方だけが鏡張りになっていて、歪であやふやな輪郭を持った鏡像と、映り込みによって生じた「あるはずのないものがあるかのように感じられる」不安定さが、空間全体の浮遊感を助長する。漆黒に浮かぶ不定型な建築群は、やはり藤本の脳内の実体化、建築が建築になる前のイメージを具象化したものと捉えるべきだろう。そうなると、意味を持たないように思えた模型の不規則な配置も、朧げなイメージ同士が互いに補完し合ったり、遠く飛躍しながらもどこかで通底していたりするような、代えがたい関係をはらんでいるのだと気づかされる。

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 続く屋外の展示スペースに移ると、当初の実際的で具体的だった建築模型の内容がいっきに抽象度を増す。何の変哲もない結束ロープやスポンジ、岩の破片に人型が置かれただけの模型群は、ともするとコンセプチュアルアートの一種と捉えられそうなものだが、そこには藤本自身の言葉が添えられ「建築模型」であることがしっかりと示されていた。
 具象から抽象へと向かう思考の変遷。各模型の解説文がどこか散文詩を思わせる文体なのは、建築を定義づけんとする論理が純化していく様子の、わかりやすい反映のようでもある。削ぎ落とされていくような洗練ではなく、混沌から次第に純度を増し、結晶化していくかのような思考の沈潜は、だからこそ空白や間を抱えたままとなるだろう。そしてそのブランクは、抽象的な建築模型のプリミティブさや散文詩のような解説文の行間として、飾ることなく我々の前に放り出されている。

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 屋外スペースを抜けた最後の展示室を囲むのは、実際に建築としての完成を見た藤本の作品写真パネルだ。抽象がひとまわりして建築作品という具象に回帰したかのように思えるものの、藤本の思考の旅はわかりやすい完結を見てはいない。展示スペースの中央に整然と並ぶのは、例えば箱であったり、裏返した灰皿だったり、小さなパソコンの基板だったりする、すでに存在する構造物を利用した模型群だ。そして藤本は、いよいよ抽象を通り越えたこれら「あらゆるもの」に人型を添えることで、「これもまた建築なのだ」と主張する。さらには、それらのグリッドに沿った規則的な配置は、建築の定義を問う思索がひとまず整理されたこと、そしてその決着に藤本が確信を抱いていることを示唆していた。
 具象から抽象、抽象から具象と、螺旋を描くかのように往還する思考は、建築を生み出す営為そのものであるが故に、おそらく終わることなく続いていく。その中にあって現時点で藤本が出した結論は、建築の定義を狭めるような類ではなかった。正面の壁に大きく刻まれた「architecture is everywhere」の文字。すなわち、「建築は、どこにでもある(あらゆるものに、見出される)」。

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 「建築とは何だ?」と執拗に問い続けるも、閉塞的な答えは出さずに、建築の多様な在り方を例示して終わる藤本壮介「未来の未来」展。建築のまだ見ぬ将来に先鞭を付けた志高き本展は、建築の可能性を極限まで押し広げんとする藤本の思索の追考を促す、スリリングかつ誠実なドキュメントでもあった。

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 ロロ+EMC feat.いわきっ子を見届けるために、パルテノン多摩まで足を運んだ。
 『演劇人の文化祭』内で催される音楽ライブということで、音楽と演劇をどのように融合させるかに期待がかけられる中、出演陣は四者四様のアプローチを見せてくれて、十分に楽しめた。中でも、恥ずかしながら初見だったFUKAIPRODUCE羽衣には強く惹きつけられ、泥臭い涙を何度も流してしまった。明るく朗らかに、人生の無常という真実を歌い上げる(明朗と無常の同居までもを含めての真実だ)、なんとも妙なミュージカル。確かに。
 こういう嬉しい誤算があるのだから、目当ての劇団だけを観て帰ってしまうのはもったいない。そういう狭量な振る舞いはインターネット上だけでたくさんだ。


 演劇と音楽の融合に対するロロのアプローチは、とりわけ見事だった。
 まずは、ひらのりょうのマンガ『FANTASTIC WORLD』刊行記念イベントでも披露された、ロロによるSMAP。この日はSMAPと明言されていなかったはずだが、SMAPらしき誰かを演じた上で音楽ライブを行うという虚構の構造は、もうストレートに演劇だ。その上で、抜群の音楽ライブ体験を提供しようとする心意気。それを可能にしたのが、Enjoy Music Clubの江本祐介によるSMAPオマージュ楽曲の圧倒的な完成度の高さであることは間違いないだろう。ひと言、音源がほしい。
 そして、その虚構の世界にEnjoy Music Clubの3人が登場したときの興奮ったらなかった。映画を観ていたら、本人役でタレントが登場したときの感覚と言うとわかりやすいか。そこにいる誰もが演じている舞台上に、まったく演じていない本人が登場する違和。虚構に突如リアルが貫入する驚きが、EMC登場の高揚と重なって興奮を高めてくれた。

 EMCとロロがコラボしたパーティーチューン『EMCのラップ道』のわちゃわちゃ感も素晴らしかったが、続いて披露された『ナイトランデヴー』が個人的には本日の白眉。EMCの3人とロロの女優陣3人が対となって向かい合い、3組のカップルが舞台に点在したまま、順繰りに歌い始める。ここで、同じ舞台で表現されていても、演劇と音楽を決定的に分かっていたのが、演者の眼差しだったことに気づかされる。演劇と違い、音楽ライブは観客を眼差すことでコミュニケーションを取る。だから『ナイトランデヴー』で3組の男女が観客を見ずに互いを見つめ合ったとき、そこで歌われる物語は演劇として閉じ、外から眺める対象になるのだ。 
 ところが、曲が終盤になると、舞台上の6人の眼差しが突如我々に向けられる。瞬間、舞台上の演劇は音楽ライブに切り換わり、それまで外部から眺めていた物語が、突然我々に向かって流れ出してくる。そうして、『ナイトランデヴー』で描かれる、「柿ピー」みたいな関係を標榜する男女の前向きな倦怠が、我々個人のリアルと地続きであることを強く実感させられる。このとき、演劇と音楽を横断する構造自体が、歌のメッセージを届ける橋渡しとして機能して、音楽ライブで歌われるよりも我々の心に響いていることを実感するだろう。そう、演劇と音楽が見事に融合しているのだ。
 演劇と音楽の融合。それを意識するとき、曲のなかで物語を起ち上げようとするのはごく当たり前な試みに思える。その結果、歌詞が説明的になったり冗長になったりして、リーディングやラップに頼る傾向が強くなってしまうのも、致し方ないのかもしれない。しかし、多くの歌は、演劇同様に物語を内包しているものだ。であるならば、歌がもともと備える物語を演劇的操作によって起ち上げるほうが、実は自然なアプローチではないか? それを企図したか否かはわからないが、三浦直之は、EMCの名ナンバー『ナイトランデヴー』に眼差しの操作という簡単な(しかし緻密な)演出を施すことで、その物語だけでなく、メッセージさえもを顕在化してみせた。その鮮やかな手つきに「魔法みたいだ!」と唸ったのは、決して私だけではないはずだ。

 『ナイトランデヴー』が終わると、恋人役だった島田桃子に「頑張ってね」と声をかけられた江本祐介が、EMCの衣装を脱いで舞台に一人立つ。そうだ、本人として出演していたが、そもそもEMCのEもまた、江本祐介が演じる役だったのだ。衣装を脱ぎ、Eを演じることを止めた江本は、しかし先ほど島田から励まされたように、『ナイトランデヴー』で演じた彼氏役は継続しているようにも思える。虚構と現実が、演劇と音楽が幾重にも入れ子になり、混ざり合った舞台で、いよいよあの曲が始まる。『ライトブルー』だ。


 『ライトブルー』から先は、もう構造的な視点で考えることに匙を投げた。おそらくこれは、鮮烈な碧い輝きを放つ青春のドキュメンタリーであって、私はこうした表現に語る言葉を持たない。だからここからは、語れないという言い訳を語るしかない。

 歌い出しのサビからしばらくすると、舞台上にいわきっ子たちが流れ込んできて江本の後ろでパフォーマンスを始める。高校内での日常のような情景を彼女たちが演じ、サビでは一体となって軽やかに踊る。江本は彼女たちを見ることなく観客を眼差していて、あの名MVが江本の背後に映し出されているような視覚体験は、あたかもテレビの歌番組を観ているかのようだ。さらに曲の終わりにかけては、江本も彼女たちと同じ振り付けを踊り出し、若い女の子たちに囲まれたポップスター然として魅せてくれる。その立ち居振る舞いは、さながら紅白歌合戦の星野源。しかも『ライトブルー』が終わって次の『100%未来』までの間は、いわきっ子に囲まれて再びEMCの衣装に着替えるという、ダチョウ倶楽部・上島竜兵メソッド。このポップさ。近い将来に、江本祐介が日の目を見るだろうことを確信させられた。

 それにしても、『ライトブルー』から最後の曲『ミーツミーツミーツ』までの流れはあまりにもまぶしすぎる。私は、批評は作品外の文脈(作者の生い立ちやトラウマ、その時々の社会情勢、etc…)を"あまり"考慮せずに、作品から読み取れる要素を"中心に"書かれるべきだと思っている。言い方を換えると、この日初めて、何の前情報もなしにロロ+EMC feat.いわきっ子を観た人と、できるだけ同じ視点で感想を書く方が、普遍性を獲得できると考えている。
 そのような意味で、あえて、あえて誤解を恐れずに言えば、江本祐介の後ろで踊り、はしゃいでいたのが「いわきっ子」でなかったとしても、私はきっと、すごく感動をする。涙も流していたとも思う。なにせ私は、この日多摩センター駅に降りたときに、制服を着た高校1年生くらいの男女の集団が駆け足で前を通り過ぎていくのを見ただけで泣きそうになってしまう、簡単な感性の持ち主なのだ。
 繰り返しになるが、いわきっ子たちの公演『魔法』を三浦直之が演出をして、その縁で江本祐介『ライトブルー』MVを彼女たちが主演したという本舞台外の情報は、本来的には感想に影響すべきでない。ただ、そうは言っても、私は『ライトブルー』のMVをあまりに観過ぎてしまっている。彼女たちの弾ける笑顔に、何度も自分の口角を上げてしまっている。渡り廊下に並んでふわりと舞うスカートに見惚れ過ぎてしまっている。『メイキング・オブ・ライトブルー「20人、最後のダンス」』を見過ぎて、彼女たちがとても頑張り屋であることを知ってしまっている。ロロやEMCの面々のツイッターなどを介して、いわきっ子たちの個性を、彼女たちがとても魅力にあふれた女の子であることをわかってしまっているのだ。
 では改めて、これらの情報は、本舞台の感想を書く際に考慮すべきではないのか? 答えは否だ。なぜなら、この日の圧倒的に幸福な空気は、本舞台という作品の魅力そのものであり、その源泉となっているのが、いわきっ子と、ロロとEMCとの固い絆、信頼関係であることは疑いようがないからだ。彼女たちのキャラクターが、取り巻く大人たちを動かし、このような表現に結実している。「いわきっ子」でなければこの美しさに到達できていないという点だけを取っても、彼女たちのキャラクターそれ自体が、紛れもなく本作品の魅力であると断言できる。そして、それを「ダンスも綺麗にまとまってて美しいし、練習の跡も分かるし、何よりもあんなステキな子たちが幸せそうで、もう見てるだけで泣いちゃったよー。出会いってすごい!」と語るのが、私の精一杯なのだ。
 このひと言を書くために、ずいぶんと回りくどい言い訳を並べ立ててしまった。ロロ+EMC feat.いわきっ子は、「すごく、よかった」。



 3月11日に催されたのはただの偶然だろうから過度な重ね合わせはしたくないので、簡潔に。あんなにもしんどいことがあったのと同じ日からちょうど6年経って、こんなにも素晴らしい日を迎えられるのが、「人生ってやつ」なのだろう。だからと言って「人生って素晴らしい」と手放しに称揚するつもりはない。けれども、そんなに捨てたものでもないのかもしれない。だから、せめて徹底的に明るく、間抜けに、朗らかに歌ってみたい(心の中で)。

 もう何年もー もう何年もー
 いーことなんかなーいー 
 今日×死ぬまでの日数= 無常の人生ー♪
      (FUKAIPRODUCE羽衣「果物夜曲」より)

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 『いつ高』のVol.4『いちごオレ飲みながらアイツのうわさ話した』を、こまばアゴラ劇場で観劇してきた。
 タイトルが示すとおり、3人の女の子(瑠璃色、茉莉、海荷)が学校の中庭でいちごオレを飲みながら、ただただ誰かのうわさ話をしているだけの物語のようで、なかなかつかみどころがない。などと書くと物足りなかったかのように思われそうだが、まったくそんなことはなく、やはり青春への憧憬を掻き立てられる素晴らしい演劇だった。冬に覚えた歌を忘れてしまう前に、その感想を書き記しておきたい(2回目)。


 登場する演者はわずか3人。この3人の女の子のとりとめもない会話劇に大きな物語的運動をもたらすのは、よく廊下で「国崎」に怒られている男子生徒「群青」が記した(と彼女たちが勝手に想像している)、短歌だ。
 短歌はなぜか、彼女たちが座るベンチの裏や、ベンチ脇のゴミ箱の裏などに隠されるように記されている。そしてこれらの短歌は、瑠璃色が言うように、あたかも彼女たちが日々スマホで撮影している写真のごとく、校舎内の日常を切り取るように詠われている。その鮮やかな筆致は思わず枡野浩一の名を出したくなるほどだが、この青春を切り取った一葉の写真のごとき短文たちは、同じ校舎で過ごす誰かに読まれることを期待しながら、ひっそりと校舎の隅で息を潜めていた。それは誰に届くか分からない、あるいは届かないかもしれない手紙のようで、だからこそ配達された暁には、投函時には想定しえなかった関係を結ぶだろう。むしろそれを期待して、あえて人目の付かない場所に書かれたに違いない。
 このような、曖昧な意思疎通による関係の変化や、不測に生じたコミュニケーションといったイレギュラーが新しい「繋がり」をもたらすことへの期待は、前作『すれちがう、渡り廊下の距離って』と同じものだ。簡潔に、「不確かさ(誤配)に可能性(希望)を見出す態度」と言い換えてもいいだろう。

 不確かさが生む可能性は、「うわさ話」にも通じている。「陰口」と結びつき、ネガティブなイメージで捉えられることが多いものの、不確かな情報から想像力を働かせるという「うわさ話」の営為は、多分に創造的な側面を含んでいる。そして三浦直之の筆は、そのうわさ話の創造性を見事に照射して、物語の推進力に仕立ててみせる。
 我々はうわさ話をしながら、相手の窺い知れぬ側面を自分勝手に想像する。誰がどのような内面を持っているかなんて、実際にコミュニケーションを取らないと一向にわかりえない。ましてや、ベンチ裏にしのばせられた短歌のように、あらゆる人に思いもよらぬ一面が隠れているものだ。力強く長ベンチをひっくり上げる海荷に、瑞々しい短歌の才能が備わっているなんて、いったい誰が想像しただろうか。
 だからうわさ話に想像力を刺激された彼女たちは、やがてその真偽を確かめるべく行動を起こし始める。そうして、うわさ話が新たな関係の萌芽になりえることを、我々はたやすく理解する。例えば本劇のタイトルである「いちごオレ飲みながらアイツのうわさ話した」を「いちごオレ飲みながらアイツの見知らぬ側面を想像しあった」と換言するだけで、そこに何か新しい感情が芽生えそうな予感が漂ってこないだろうか? もしかするとそれは、恋だったりするのかもしれない。


 『いつ高』のテーマが「眼差し」であることは、あらかじめ明言されている。
 眼差し。何かを見つめる視線。特に舞台範囲が限定される演劇においては、演者が遠くを眼差す先にある者・物の様相は、我々観客の想像に委ねられる。このとき、我々が演者の見つめる先だけでなく、見つめる演者の気持ちの両方を想像していることも忘れてはいけない。眼差しは、受け手の想像力を強く刺激する、作劇上の装置でもあるわけだ。
 本劇ではこの眼差しが、現在4作品あるシリーズの中でも最も強く意識させられる。それは当然のことで、彼女たち3人はうわさ話をして、ここにいない誰かのことを想像するために、中庭で過ごす時間のほとんどを眼差すことに費やしているからだ。そして、彼女たちが遠くを見つめるときの、対象から眼差されることがないが故の無防備な表情は、その内実を雄弁に物語ってくれる。

 このように本劇では、彼女たちの印象的な眼差しが数多く見られるのだが、とりわけ、中庭で1人たたずむ瑠璃色が見せた表情は圧巻だった。
 瑠璃色の、当初は好奇心に満ちたようにキラキラしていた瞳が、徐々に潤み、憂いを湛えていく。
 その繊細な変遷の間、瑠璃色の視線の対象と、それを見つめる彼女の気持ちを想像しながら、我々は息を呑んでその表情を見つめ続けた。
 恥ずかしいことに、私には彼女が誰を見ているのかが判然としなかった。学校中に短歌をばら撒いたと思しき群青を見ていたのだろうことは想像がつく。なにせ短歌の中には、瑠璃色らしき女子に対する恋心を詠ったものがあったのだから。それでも確信が持てないのは私の読解力不足かもしれないし、後述するが、もしかしたら、あえて明示しないように演出されていた可能性もあるかもしれない。ともあれ森本華の瞠目すべき演技は、少女のなかで恋心が累乗的に大きくなっていく様子を、つまり一人の女の子が人間として成長する瞬間を、眼差しの変遷によって見事に表現してみせたのだ。
 クリスマスイブを詠った短歌が描く季節を、冬ではなく夏と読み替える瑠璃色の豊かな想像力は、彼女が眼差していた対象の中に、自分しか気づき得ない美点を見出すだろう。それは都合のよい妄想かもしれない。しかし我々がいくばくかの経験から見知っているように、そのような妄信力こそが恋愛を起動し、推進する力になる。

 物語の終盤、群青を真似た瑠璃色と茉莉が次々と短歌を詠みあげていくと、夕暮れに染まる校舎に囲まれた中庭いっぱいに、青春の情景が満たされていく。青春は、はたかれる黒板消しから舞うチョークの粉や、放課後に軽音楽部から聞こえてくるくぐもったロックミュージック、体育館ですれてキュッキュと鳴る運動靴の音にさえも潜んでいる(ぷらせぼくらぶ!)。もちろん短歌を詠む彼女たちの声もまた、青春を構成する要件そのものだ。
 そうして青春で満たされた水槽のような中庭の底で、3人の女の子が誰かに教わった歌を歌いながら、自分たちの写真を撮っている。当の本人たちは無自覚な、何の変哲もない、しかし美しい日常を切り取りながら、彼女たちは歌う。

  校庭の隅 ヒメリンゴの実
  もぎってかじる ひどく酸っぱい
  夏の匂いと 君の匂いが
  まじりあったら ドキドキするぜ
  時間が本当に もう本当に
  止まればいいのにな

 我々は思う。「この素晴らしい時間が刹那的なものであることは知っている。だから、どうかこの瞬間が停止して、永遠になってくれないだろうか!」と。もちろん、時間は止まることなく流れていく。しかしだからこそ、その時間をどうにかして切り取ろうとする行為は、特別な価値を持つ。

 その昔、90年代の退廃的かつ享楽的な時期の刹那性にいち早く気づき、そこに戯れる自分たちごと切り取った女の子たちの写真群が、驚きをもって迎えられたことがあった。「写るんです」からチェキに移り、写メールを経てスマホに至るまで、過ぎていく瞬間を捉える感覚は、以降、瑠璃色や茉莉や海荷のような、市井の若い女の子たちがずっとリードし続けている。彼女たちの強い感受は、身近な日常がはらむかけがえのなさを本能的にすくい上げてしまうのだろう。
 青春を切り取って見せる手段は、何も写真に限らない。本劇が示したように短歌でもいいし、言葉を使うのであれば、物語にして演じる方法だってあるはずだ。まさに『いつ高』が、我々に見せてくれているように。
 『いつ高』はいつだって青春をありありと切り取り、届けてくれている。今度は受け手である私が、あなたが、そこから想像力を働かせる番だ。作品は、作り手や演者と、我々受け手とのコミュニケーションにほかならない。そう考えると、本劇の限られた演者の数、限られた舞台、(おそらく明示されていないだろう)眼差しの先までもが、想像力を喚起するべく、「不確かさ」をはらむように演出されている気さえするではないか。うわさ話から恋が生まれたように、不確かさには可能性が潜んでいる。 だから誤読を、正解や不正解といった価値基準などを恐れずに、自身の感性で作品を受け取りたい。その態度こそが、新しい感情や関係を生む原動力となるのだ。 


 本劇を受け取って、私はそのように思いを巡らせ、想像したのだった。

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 以下の文章は、2007年12月の私が、当時まだ人気のあったSNS『mixi』(この響き!)に綴った日記で、友人のみに公開していた非常にプライベートなものです。
 なにしろ9年強も前のことだから、文章はもちろんのこと考え方や論旨の展開が今にも増して稚拙だし、なによりも途中で書くことに飽きているのがありありと分かったりして、これを公開することが是であるかは今なお疑問なのですが……しかし、ブログのエントリにすることにしました。「2017年に素晴らしい新曲を世に問うた」というバイアスがかかることのない、『ひふみよ』以前である2007年の小沢健二を、その当時の自分がどのような受け取り方をしたのか、できる限りそのまま残しておくことが、なんか、良い気がしたからです。

 個人的には、先日のNEWS ZEROで「自分はそんな大した存在じゃない」と言っていた姿が、あの日、映画のあとに我々に喋りかけた彼と重なって見えてました。本当に、変わらぬ信念で表現に携わり続けているんだなあ、って。


 小沢健二を見てきた。

 という言い方は少し正確ではなくて、小沢健二とエリザベスコールが手がける映画「おばさんたちが案内する未来の世界」を観る集いに、友人の厚意で連れて行ってもらったのだ。
 本当に降って湧いたようなありがたすぎる誘いで、小沢健二の本当のすばらしさに気づいた頃には、すでに彼が、その活動を謎めいたものにしていた世代としては、生の小沢健二を見ることができるというだけで僥倖だ。ましてや『天使たちのシーン』をはじめとする彼の素晴らしい歌詞、メッセージ性に、大げさでなく人生を救われた経験がある大の"オザケン信者"を自負する私にとって、彼をひと目見ることは人生の目標の一つでもあったのだ。

 もちろん、『ある光』のころを境にいっさいメディアに登場しなくなり、『Eclectic』でわずかな写真のみでしか見ることのできなくなった彼の姿は、単純に野次馬的な興味として、ファンでなくても気になるところだろう。 実際、クイックジャパン誌によるニューヨーク直撃取材の影響でか囁かれるようになった、"小太りになったオザケン"という噂は、かつての"渋谷系の王子様"といった良くも悪くもナルシストっぽさを想起させるイメージとは大きくかけ離れたもので、売れなくなったミュージシャンという負のイメージとともに、嫌な関心を集めている。
 加えて、かつて"オザケン"を好きだった人たちにとっても、その動向を追ってるからこそ、彼の実父が発行する雑誌で連載されている童話『うさぎ!』の内容、とくにわかりやすく「反グローバリゼーション」が掲げられていることを知り、その胡散臭さにオザケンは変わったという印象を抱いてしまったりもする。
 悲しいかな、私も確実にそういった認識を持っていて、『毎日の環境学』をファンだからという理由でとりあえず購入し、それをきちんと聴くことも無しに過去の『流星ビバップ』なんかを聴き返しては、「またこういう曲を作ってくれないかなぁ」と溜め息をついていたくらいだ。

 しかし今日オザケンを見た結果、私はオザケンを自分の中で勝手に過去の人としていた、殺してしまっていたことを悔い改めなくてはいけないと反省するにいたった。
 結論から言えば、私が彼の歌詞のなかで最も強く影響を受けた「喜びをほかの誰かと分かり合う、それだけがこの世の中を熱くする」という信念や、「愛し愛されて生きるのさ」といったメッセージは、あの頃から10年余りを経た彼にとっても、今なお生き続けていたのだ。
 そしてその信念の行き着いた先が、反グローバリゼーションだったというだけで、当たり前のことだけれど、かつてのオリーブ少女が「人とは違うわかってる自分」を演出するためにロハスなどに行き着いたのとはまったく違う道筋を歩んだ結果であるとすぐにわからされた。
 だって彼の言う「分かり合う」という精神は、「出し抜く」という経済至上主義の論理とは明らかに相反するものではないか。こんな簡単なことに私は気付かないでいたのだ。

 映画の内容はボリビアで農民が訴える農地改革の成功の様子から、チャベス大統領を支持するベネズエラの民衆の様子を、そこで暮らすおばさんたちを通して見るといったものだ。
 そのなかではたとえば鉱山の苛酷な労働環境で働かされてきた現地の人々が、鉱山の国営化によって「外国企業に搾取されないですむ」と喜ぶシーンなどが映し出される。もちろんこうしたベネズエラの状況は非常に大まかであれば私なんかでも見知っているし、反グローバリゼーションというスタンスは、とくにブッシュ着任以降に私も同意し、ファッションにならない範囲で取り入れてきたつもりの問題意識だ。
 それだけに、こんなことはいまさら見るまでもないと思ったし、なんだか「君たちもっと勉強して!」と言われているようで、「もともと金持ちの家の息子がなに言ってるんだ」と反発を覚えたくなるところもあった。 ましてや、ともすると善良な正義に思える運動に個人が埋没していくことや、そこで自己実現的な意識が見出されてしまうことへの危機感は、かつての薬害エイズ問題における小林よしのりの指摘と同じもので、私はこのような問題意識に関してだけは同氏を支持している。

 だから2部構成の映画を観終わったあとにみなで話し合う時間が用意されていると知ったときは、正直勘弁してくれと絶望的な気分になったりした。
 だが、いざ話し合いの時間が始まると、オザケンは「この映画を観て思い出したことを話してください」と願い出たのだった。意見や感想ではなく、「思ったこと」や「考えたこと」でもなく、彼は明らかに意図的に「思い出したこと」という単語を選択してきたのだ。そして話を聞いてるうちに、彼はべつに参加者の面々に、何か運動をすることを求めているのではないことがわかった。あるいはこうした映画を集団で見ることで問題意識を持ち、運動した、勉強したつもりになり、義憤を晴らすただのガス抜きになってしまう危険を案じていることも伝わった。
 つまり彼は、意見を交わし、議論するといったことが起こらないように、個人の問題をそのまま個人のものとしてフィードバックするために、あえて「思い出したこと」を語ってほしいと願い出たのだ。なにしろ意識を変えて生活を改めろと言ったって、みな個々人の人生があるのだから誰もが簡単に変えることなどできないし、ましてや個人の人生は根本的に、赤の他人がとやかく言うようなものではないのだから。
 にもかかわらず、オザケンに対してかつてのメディアスターの地位を生かして、もっとメディアに出て反グローバリゼーションについて語ればいい、といった意見を主張する人間が少なからずいたのだから、彼の苦悩がうかがい知れる。ファンだろうと誰だろうと、小沢健二の人生に口出しする権利など持ち合わせてはいないはずのに。

 けれどもそうした参加者とのやり取りにあっても、彼は極めて誠実かつ真摯に応じていた。
 そのなかで「自分という人間は本当に小さい」といった主旨の発言をし、大きな問題を変えるためには、みなで繋がっていっしょに動くしかない、ひとりの人間によってひっくり返すようなことはできないと言っていた。
 大きな問題に直面した彼は、それを変えることのできない小さな自分を見つめながらも、そこで諦めることをせずに、変えるために共闘してくれる人間を探すための活動を、他人に精一杯配慮しながら行なっているのだ。それは本当に個人的な戦いではないか。

 そうだ。思えば小沢健二は、自分の小さな戦いの歴史を、赤裸々なまでに表現してきたアーティストだったではないか。
 「世界は僕のものなのに」と歌った思春期の自意識や「分かりあえやしないことを分かり合うのさ」と歌った究極の諦観。「不ぞろいな心はまだ今でも僕らを悩ませる」と歌ってから数年経っても「大人になれば」なんていい歳こいて歌ってみたり。
 プライドの高さと頭のよさが故、すべてをわかったうえで理論武装をし、繰り出される痛々しくも鋭く尖った歌詞や言動こそが、小沢健二という表現者の魅力であり、その真摯な姿が、誰よりも私の心を震わせ、虜にしていたのだ。

 常に戦い続けて生傷の絶えなかった彼が、今も新しい傷にまみれている。そう、私が大好きだった小沢健二は何も変わっていなかった。だから私は、この生真面目な表現者を、その誠実な戦いぶりを、これからも愛し続けるだろう。
 もちろん、40才を目前に控えるというのにまったく衰えることのない、まるで女の子のように愛らしい容姿といっしょに、だ。


 小太りとか超ウソじゃないですかー!


 こんなにも美しい映像が他にどれほどあるだろうか。

 現代に落とされたPOP爆弾、Enjoy Music Club(EMC)のトラックメーカーにして、それ自体がせつなさをかもし出す天賦の鼻声(ポスト小沢健二!)を備えたポップメイカー、江本祐介。そんな彼のファーストシングル『ライトブルー』のMVが、同曲の発売から半年もの期間を経て公開された。
 同MVの監督は、『ライトブルー』の作詞者でもあり、EMCのゆるふわライム担当でもある松本壮史。美術を担当するのが、センスオブワンダーなアニメ&マンガで名を馳せるトップクリエイターにして、EMCのやんちゃラップ担当でもあるひらのりょう。そして演技指導を、いまや『いつ高』で青春演劇の旗手になった、劇団ロロ主宰の三浦直之が務めている。リリース文で公開されたこの贅沢すぎる布陣に心踊り、息をするのも忘れてしまったのは私だけではないはずだ。
 正直、冒頭に貼り付けたYouTubeを観てもらえばその素晴らしさはすぐにわかってもらえるはずで、ひと目見ただけで心をつかまれるくらいに、本MVは特別な感情を呼び起こす。にも関わらず私が足りない筆舌を尽くしてエントリを上げるのは、こうした美しい作品に触れた喜びを(少しでも正確に)他の誰かと分かり合うために他ならない。それだけがこの世の中を熱くするに違いないのだから。

 映像は、地方の高校を舞台に、そこで学ぶ女子生徒たちを中心に据え、文化祭までの7日間を追いかける。その中で、演じられることに決まったダンスの練習を含む文化祭の準備だけでなく、告白だったり、仲たがいだったり、異性との交遊だったり、部活動だったり、たわいもない会話だったりする、校舎内で展開されるさまざまなシーンを、カットを割らないひとつながりの映像である"ワンカット"で駆け抜けていく。
 学校を舞台にワンカットで撮影されたMVと言えば、川島海荷が主演した映画『私の優しくない先輩』のエンディングを思い起こさずにはいられない。そこで披露された『MajiでKoiする5秒前』も大勢によるダンスで大団円を描いており、映像から溢れ出すきらめきは、やはり特別な感動を湛えていた。

 どうも青春のシークエンスを紡ぐのに、ワンカットの演出は相性がいいようだ。
 おそらくはワンカットで演出された映像がもたらす、常に変化し続ける画面の吸引力や、失敗が許されないというメタ的な緊張感、そしてそれが無事に完走したときの達成感が、青春が持つ「一回性」の象徴として機能するからではないか。
 青春の一回性。思春期にだけ許された、無知さゆえの奔放な行動と、それがもたらす自身の人生への劇的な影響は、同時期を特権的に輝かせる。そして人生の経験を積み、知らなくてもいいことばかりを知ってしまった我々にとって、どうしたって青春を取り戻すことは難しい。人生は、いくつになってもやり直せる。やり直せるはずだ。だが、思春期の一瞬一瞬は、やり直しが効かないという意味ではなく、その輝きのまぶしさ、貴重さという点において、「一回性」と呼ぶべきかけがえのなさを担保している。

 私のような簡単な感性の人間にとって、青春のシーンとワンカット演出の組み合わせは、それだけで泣けるほどに相性がよい。もっとも、『ライトブルー』のMVの白眉は、このひとつながりのシーンの中に、時間経過の概念を導入してみせたところにあるだろう。これにより、文化祭当日に向け、日を追うごとに増していく高校生の高揚感と、大サビに向けて盛り上がっていく曲の構成を合致させ、その相乗効果によって映像がもたらす興奮を高めている。
 もちろん、「3日前」から始まる、階段を下りるごとに進行していく文化祭準備の様子のように(徐々に出来上がっていく水色祭の看板など)、「○日前」という文字情報だけではなく視覚映像のレヴェルで時間経過を認識させる工夫を見逃すわけにはいかない。
 あるいは、計3回あるサビに入る瞬間の美しさ。いずれのサビの導入にも少女たちのダンスが添えられているが、最初のサビで、渡り廊下に並ぶ少女たちがそろって踊りだし、身体をしなやかに広げてふわりと回りだしたそのときの、世界に秩序が与えられ一斉に躍動を始めた瞬間の感動を、いったいどのように喩えたらよいのだろうか。彼女たちそれぞれの世界が瞬間、歩みを重ねて動き出す。やがてその動きは拡散し、彼女たちは再び自身の世界を取り戻すだろう。しかしたとえわずかな時間であっても、それぞれの世界が、人生が重なることで代えがたい喜びが生じることを、我々は知っている。そう、彼女たちのダンスが放つ美しさは、各人の人生が交錯する学生時代固有の愉楽と、正しく相似を描いているのだ。
 そして、本MVのハイライトでもある大サビからの演出は見事というしかない。Cメロで溜め込まれる大サビへの期待感を、文化祭で披露されるダンスの本番前の緊張感に重ね合わせるだけでなく、大サビに入った直後の静寂も、ステージのスポットライトに照らされて1人ポーズを取る女の子への注目に寄り添わせている。さらに、その直後に舞台上に全員が集まって踊りきり、ステージを降りて青空の下へ駆け出す大団円までの疾走に至っては、作り上げられたワンカット映像の凄みを離れ、演じる彼女たち自身、その青春のドキュメントのようなリアリティさえ備えていた。

 MVの終わり、演奏が鳴り止んで青空に「ライトブルー」のタイトルが浮かび上がる画面では、演じきった彼女たちの生々しい吐息だけが載せられている。このとき、たしかな生(せい)の息遣いを確認して我々は、ワンカットのできすぎた映像、作り物の世界の裏にある努力と達成、みなで力を合わせて何かをなしえる喜びに思いを馳せるだろう。
 かつて稀代の名作詞家であるつんくは、「いくつになっても青春だよ」と歌をつづった。それは決して、青春から離れて久しい我々に対する慰めではない。事実、主演した少女たちや端々に出演した高校生たちだけでなく、このMVに携わった大人たちの誰にとっても、『ライトブルー』をみなで作り上げた経験は等しく「青春」であるはずだ。そして本MVが持つ、関わったすべての人を青春に巻き込むような不思議な引力、その魔法は、ただの観客である我々をも「青春」に引き込んでくれる。

 本曲の作者である江本祐介は、ツイッターで「ライトブルーの撮影ひと通り終わってスタッフみんないなくなっていわきっ子達だけが残る教室にスッと入って1番後ろの席に座って彼女達がはしゃいでる姿を眺めてたんだけどそこでも上手く話しかけられなくて俺は学生時代から何も変わってないし昔もこんな感じで女の子眺めてたなぁと思い出しました」とつぶやいた(https://twitter.com/y_e1234/status/825827553784975361)。もうひとつ、先日催された佐々木敦とのトークイベントにおける、三浦直之の言も借りたい。いわく、「高校時代の自分は恋愛や熱心な部活動と縁があるわけでもなく、いわゆる"青春"を経験したわけではないが、映画や小説でフィクションとしての青春を楽しむことは非常に好きだった」(※うろ覚えなので詳細は異なるかもしれません)。
 絵に描いたような青春、充実した思春期と縁のなかった彼らの手による映像が、こんなにもキラキラとした青春を描いている。惚れた腫れただ友情だ部活だと充実した高校時代を、すべての人が経験しているわけではない。我々が青春に憧憬を抱くのは、過ぎ去った自身の記憶のよすがとしてだけではない。青春は、思春期に経験されるリアルな情景とは必ずしも地続きではなく、せつなくも美しい時期の具象として、それ自体で独立して存在できるのだ。
 だからたとえ経験していなくても、我々はフィクションの青春に、誰かが経験しているかもしれない自分の人生とは無関係な青春に涙することができる。そしてフィクションの青春で培われた感性が描く青春は、再生産であるがゆえに純度を増し、美しく輝くに違いない。この『ライトブルー』のように。

 いつか、心の奥深くにしまっていたつもりの自分の思春期が、擦り切れ、なくなってしまったように思う日がくるかもしれない。でも大丈夫だ。江本祐介『ライトブルー』のMVを再生すれば、我々はいつだって青春の欠片を取り戻すことができるのだから。

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